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台湾あれこれ、時々パン。

台湾のことを知るための、気になる記事を翻訳しています。

失ったものはあまりにも多く、もはや土地は戻らない

掲載元報導者 The Reporter 
原文:我們失去太多,挽救不回來的是土地——部落青年看原住民傳統領域(文:王立柔/写真:余志偉、2017.3.28)

 

失ったものはあまりにも多く、
もはや土地は戻らない
―原住民部落の青年から見た台湾原住民の伝統領域

 

原住民委員会が公布した「原住民族の土地の区画に関する規定」において、原住民の「伝統領域」から「私有地」が除外されたことに対して抗議するため、原住民グループはすでに一ヵ月余りの間、総統府前で野宿も辞さず反対を訴えている。目下の法的な争議はひとまず脇に置いて、台湾東部の部落へと視点を移そう。多くの部落青年たちが「伝統領域」を知る過程には、彼ら自身のルーツを探る旅があった。そして青年だった彼らが中年を迎えた今も、自分探しの足跡は人生に深く影響を与え、原住民の土地の保存のため、土地そのもののために奮闘し続ける彼らを支えている。

 

 

台湾原住民の「伝統領域」に関する争議とは?

 

台湾原住民の「伝統領域」とは、原住民にとってゆかりのある生活領域を指す。そこには部落の所在地、農耕地、狩猟場、漁場、聖地等、さらに海域や河川も含まれる。しかし百年にわたる外来政権の進入とともに、これらの土地は度重なる略奪を受けた。

今年2月14日、行政院の原住民委員会は「原住民族の土地の区画に関する規定(原住民族の土地の区画に関する規定)」(以下、「区画規定」)を公布。一見すると、原住民が土地に対する権利を主張するための道筋が示されたかのようだが、実際のところは、「伝統領域」の区画規則から「私有地」は除外されたままだ。多数の原住民はこれを受け入れられず、2月23日から総統府前で座り込み、抗議を行い、すでに一ヵ月余りが経過している。

原住民と漢人との土地に対する考え方は違う。「伝統領域」の概念は「所有権」とは異なる。今、仮に市民または企業の私有地が原住民の伝統領域に含まれることになっても、その所有権は変わらない。

カイザー通り(総統府に繋がる大通り)の原住民グループが訴えているのは、伝統領域で商業目的の大規模な開発を行う際、たとえば大きなホテルを建てたり、鉱山資源を採掘したりするといった場合に、ただ部落に事情を伝えて、同意を求めてほしいということだ。

実は以前から、台湾には「話し合いによる原住民部落の同意及び参与の取得に関する規定(諮商取得原住民族部落同意參與辦法)」というものが存在していたが、それは母法「原住民族基本法」第21条に基づく「原住民の土地または部落及び周辺の一定範囲内にある『公用地』」を対象としている。そして今回登場した「区画規定」においても、私有地と伝統領域の概念とは相容れないとされている。つまり、ある私有地が実は原住民の伝統領域の範囲にあったとしても、法律上は伝統領域/原住民の土地と見なされないことを意味する。したがって、原住民がその土地の開発案に対して詳細を知り同意を下す権利を主張することは未だに難しい。

これまでに、東海岸のアミの人々が長年の抗争を経て、ようやく行政院が環境アセスメントを撤回するという形で悪名高い美麗湾リゾート村開発案を退けた、という事例がある。にもかかわらず、現在も孤立無援の立場に置かれ、杉原棕櫚リゾート村、黄金海レジャーリゾート村等の開発案がいつ進んでもおかしくない状況にある。

もし「区画規定」がこのまま変わりなければ、原住民の生活空間を圧迫し続ける可能性があるだけでなく、土地の喪失とともに文化的な意義までも失われるかもしれない……

 

 

 カワンとシンシンたち

 

「当時、クメン(アルファベット表記:Kumen/漢字名:余忠国)という人が、伝統領域は私たちのもの、取り戻さなければ、と言っていた。彼はずっと訴えていたものの、皆にはその感覚がなかった。それが自分たちのもので、部落が使っている土地なのだと、若い世代に実感してもらうためにはどうすればいいか?私自身も自分が使用している土地のことしか分からない。1キロ以上離れたところまで狩りに出てイノシシを担いで帰る技術もない。一つ上の世代なら足をのばしていた場所でも、私たちには身近に感じることができない。」

 

こう話すのは今年で44歳になるカワン(アルファベット表記:Cawan/漢字名:鄭智文)だ。台東県東河郷のアミの人々が住む都蘭(ドゥーラン)部落に生まれ育ち、故郷を離れて大学に進学、就職し、ここ数年でまた部落に戻って生活を始めた。話の中に登場するクメンも都蘭部落で育ったアミの仲間。2001年、都蘭部落は「都蘭鼻BOT(民間資金等活用事業)開発案」に抗議するために伝統領域の調査を自主的に始めた。その際、クメンは熱心に身を投じ、より多くの仲間に参加を呼び掛けた。

 

当時のカワンはそこまで深く共感しなかったが、クメンの理念はカワンの心に種を植え付けた。そして原住民の問題がますます注目されるようになった2000年代のムードの中で、その種が徐々に芽生えはじめたのだった。

 

「部落では話し合いをするようになり、年長者たちも、どうしてこんなにも昔と変わってしまったのか?と嘆く。そして、若者が戻り、昔のように働き、少なくとも文化を伝承する役目を引き継がせることができればと願った。その折に私は、必ず故郷に帰らなければと考えるようになった。それからは、ここを自分の場所だと意識するようになってきた。」

 

カワンは自身の力を役立てようと決意した。コンピュータ技術に通じていた彼は、都蘭部落の伝統領域の地図を電子化することに協力、さらに思い付きで地図を拡大出力し、豊年祭の会場に掛けた。これが予想外の反応を招き、場が一瞬で高揚感に包まれると、とりわけ老人は地図上のある部分を指して声を上げた。「そうそう、まさにここだよ!昔はよくあそこで狩りをしたんだ。今では行けなくなってしまったが……」。

 

アミは海の民だ。数世代前から頻繁に山に登ることはなくなったが、海についてはほとんど誰もが詳しい。アミの男性にとって海は冷蔵庫のようなもの。魚を食べたければ自分で海に入り何匹か捕まえて帰ってくる。それはとてもシンプルで、自然なことだ。

 

だが近年では、アミの仲間が海辺で魚を捕まえている時に、海岸巡防署の巡回員に連れていかれて取り調べを受け、「水域レジャー活動管理規定(水域遊憩活動管理辦法)」違反であると指摘されることが度々起こっている。アミの豊年祭会場を見つけることもますます難しくなってきている。海岸を自由に使用できなくなりつつある今、伝統的な儀式を行うことも難しく、海上で活動する業者が設置した柵のために、普段は思うように潜水をすることさえもできない。

 

原住民の活動範囲が次第に制限され、生活方式の転換を余儀なくされると、原住民の権利や利益が直接的に脅かされるだけでなく、間接的には文化が失われてしまう。なぜなら、土地の始まりは人の始まりでもあるからだ。原住民文化において地名は、仲間が漁や狩りで方向を見失わないよう、地元の資源、土地の様子、地形を認識するために用いられてきた。祖先が暮らしの中に残してくれた知恵の結晶とも言える。

 

都蘭部落南部にある刺桐(ツートン)部落の一員であるシンシン(アルファベット表記:Sinsing/漢字名:林淑玲)はこう説明する。「アミの人々は昼間だけでなく夜も海に行く。昔は懐中電灯がなく、月の光を頼りにしていた。けれど潜れば方角が分からなくなるから、その時は岩がどこにあるかを見て判断する。Googleを使うこともできない。海底に何があり、位置はどこなのか?岩を見分けることができなければ、身を守ることも無事に帰ることもできない。」

 

シンシンは堂々とした様子で、土地に関する様々な事柄を丁寧に話す。貝類がよく捕れるのは海底の何時の方角で、どの海藻がどこでよく捕れるか等。しかし、カワン同様、ここ数十年の部落の生活形態に影響され、幼少期に年長者が話してくれた物語を覚えてはいるものの、そこから現実の生活環境を連想できるとは限らない。現在のようにたくさんの知識を得ることができたのも、伝統領域の地図製作に協力するにあたって再度、調査をしたからだった。

 

たとえば、カワンは地図製作の経験をこう語る。「小さい頃に祖父がよく話してくれたことと繋げてみると、馴染みのなかった地名についても、もっと理解したいとだんだん思うようになり、山林の変化を見に行ってみたくなった。」 

 

シンシンが参加した伝統領域の調査作業は、主に刺桐部落とさらに南方の加路蘭(ジャールーラン)部落に関するもの。「年配の人たちの証言からは、以前、ここは実際に皆の活動範囲で、この場所で耕作をして、何かを使って竹を割ったり、茅葺き屋根をかけたりして、海ではどの岩にどんなウニや貝がいたのかといったことが聞ける……とても生き生きとした描写で、そこで生活してこそ知りうること、つまり伝統領域のことを教えてくれる。彼らにとって採集や漁をした場所は印象が深い。誰かがそこで転んだという話が伝わって広まったそうで、そのために地名が変わったこともあるという。ここにはたくさんの暮らしの物語がある。」 

 

「(開発案に関して)部落の同意を得ることが必要である理由も道理もそこにある。外部の人間では、ここで過去に何があったのか、或いは何かを建てるために適した場所であるのかどうかということは、絶対に分からない。よそ者が土地を買っても、ここで起きたことについて地元の人間よりも詳しいなんてことはない。」

 

シンシンがこう語る時、そこには理屈だけでなく、強い感情が込められている。一度は沈痛な面持ちでこう話した。「この十年間に私たちが失ったものはあまりに多い。けれど、とりわけこの土地というものは、どう手を尽くしても返ってはこない。」伝統領域の調査に深く関わるきっかけとなったのは、2003年に始まった美麗湾リゾート村反対運動だった。

 

当時、誰もが「ここは私たちの伝統領域だ」と言っていたが、伝統領域とは結局どこからどこまでなのかと、疑問に思っていたのだと彼女は振り返る。加えて、部落がエコツーリズムを開催し始めたことで、部落のこれまでのことを説明する必要が出てきて、彼女にきっかけを与えた。「ルーツを探り、尋ねに行くことになった……部落の古株や、他の年長者も同じような物語を話してくれる時には、まさにこんな風にして伝えられてきたのだと思い知った。だから、ここが伝統領域なのかと問われれば、その通りだと答える。」

 

長年、彼女は数多くの年配の人びとの口述を整理し、彼らが話す場所へ実際に足を運んできた。今では部落について、若い頃よりも深く、詳しく理解している。筆者たちを車に乗せて伝統領域の一帯を通る際、山の斜面にある土地を指さしながら百年前にどう使われていたのかを紹介してくれ、或いはたくさんの地名について、すらすらと説明してくれた。

 

話を聞きながら筆者は、こうしている間にも、彼女の文化がいくらか広められ、伝えられているのだろうと考えた。伝統領域の調査において、結果が重要であるだけでなく、その過程で多くの意義が生じているのかもしれない。また、それは権益を取り戻すための政府に対する訴えにとどまらず、原住民たち自身の文化復興運動でもあるのかもしれない。カワンにしてもシンシンにしても、自分たちの土地で、自分たちの文化について語る時、彼らの言葉は凛として揺るがない。

台湾人がアイドルドラマにハマるのはなぜ?

※本記事は、掲載元《風傳媒》より翻訳及び転載の許可を得た上で投稿しています。
原文:為何台灣人熱愛偶像劇?專訪黃健瑋:那些幻想,讓你暫時忘記人生沒有選擇權…(文:謝孟穎、2016.5.20)

 

台湾人がアイドルドラマにハマるのはなぜ?
俳優・黃健瑋へのインタビュー

 

数多くの台湾ドラマが「平凡な女の子と大企業の社長が恋に落ちる」という夢のような筋書きで始まり、主人公たちが躓いた拍子にキスしてしまうことになるのは何故だろうか?演技派俳優の黃健瑋はこう語る。「幻想の世界に入り込むことで、日常生活で直面するありとあらゆる問題から目を逸らすことができる。家庭のことや、人生におけるいろんな問題から。でもそれだけがドラマの持つ唯一の役割だとは思っていない。

 

黃健瑋(ホアン・ジェンウェイ)はどのような俳優だろうか。『麻酔風暴*1』を観た医師が「黃健瑋はどこの病院の麻酔科医だ?」と思わず尋ね、ともすれば『白米炸彈客*2』を観た人が「爆弾テロの本人じゃないの?」と驚きの声を上げる。どんな役を演じてもその人になり切ってしまう黃健瑋の実力と、演技との向き合い方とを示すエピソードだ。

 

彼が劇中で初めて恋愛をする役を演じたのがドラマ『麻酔風暴』。ヒロインとの間に育まれた、互いを理解し、支え合うような安定感のある愛情はリアルで感動的だ。オムニバスドラマ『滾石愛情故事*3』の中の第14話「你走你的路(君は君の道をゆく)」では二人の妻の間で板挟みになった夫を演じた。そのどっちつかずの姿は台湾人男性の一面を克明に描き出している。

 

がっしりとした体つきと低音の声が魅力的な黃健瑋は、まさに多くの女子たちが夢見る大人の男。そんな彼には「社長と恋に落ちる」ドラマを演じる素質が十分に備わっているはずだが、どうして演じようとしないのだろう。台湾のドラマについて話し始めると、彼の口からは俳優へのインタビューではあまり耳にしないような「消費主義」というワードが飛び出した。彼にとって、あまりに突飛なストーリーはブランド物のバッグのようなものだという。

 

 

「幻想づくりには興味がない。」

 

リッチでハンサムな社長が平凡な平社員を好きになり、微妙な距離感の二人が路上で躓き思いがけず口づけしてしまう…こんなファンタジーめいた物語は、台湾ドラマに決して少なくない。いつになれば我が身にもこんな展開が訪れ、色褪せて退屈な毎日から抜け出せるのだろうと考えるものだが、黃健瑋はこういったストーリーを笑い飛ばす「come on, get real!(おいおい、目を覚ませよ)」

 

「ドラマに恋愛は欠かせないよ、人生の大事な一部だから。だけど、ああいう現実離れしたドラマのストーリーは、実は恋愛を描いているんじゃなくて、幻想を見せているだけなんだ。ヴィトンのバッグみたいに、欲望を売っているというわけ。」彼は滔々と語る。「人は幻想を求めるものだよね。ここを現実からの脱出口にして、生活での苦しみや向き合いたくないものから逃げ出せる。例えば自分はすごく太っているけど運動したくないとか、きれいじゃないとか、何々が足りないとか…」

 

ドラマは幻想を売り物にしてはいけないのだろうか。黃健瑋はこう話す。それこそ消費主義というもので、本来必要ないはずのものに対する欲求を生み出させ、買うという行為を通じて人生における選択権を得られたかのような気にさせる。でも実際は何も得られていないし、テレビを切ってみるとまだ元の場所で足踏みしていて、生活は何一つ変わらないまま。

 

「この世界で起きていることに無関心でいる限り、自分では選択できているつもりでも、できていないことが山ほどある。接種したワクチンがどういうものか分からず、自分が飲む水のこともよく知らずに、選んでいると言えるだろうか。大部分のことを僕らは気にも留めないけど……」

 

 

「それだけがドラマの唯一の役割だとは思っていないし、幻想をつくり出すことには興味がないんだ。」そう語る黃健瑋の眉間に皺が寄る。俳優というよりも、常に思考を巡らせる活動家のようだ。

 

 

『滾石愛情故事』
平凡な人たちが向き合う20通りの愛の難題

 

黃健瑋が『滾石愛情故事』への出演を引き受けたのは、こういった理由があったからかもしれない。ベテラン監督の馬宜中がプロデュースする本作は「愛情故事(愛の物語)」と銘打ってあるものの、突拍子もないことが起きたりはしない。20曲の名だたるラブソングをテーマにドラマ化し、どこにでもいるような人の、愛情にまつわる様々な苦悩を描いている。誰もがそのうちのどれかに共感し、感動する―たとえハッピーエンドとは限らずとも。

 

「君は君の道をゆく」の中で黃健瑋が演じる主役・夏柏峰は、浮気をして離婚し、新しく妻を迎えたにもかかわらず、前妻の鄭佩盈(女優・六月)と息子のことから手を引けず、二つの家庭の間を行ったり来たりしては「身動きがとれない」と感じている。役柄について聞くと、彼は大きく目を見開いて言う。「こんなの未熟な男がやることさ。何度結婚しようが変わらない。一人の人間に対して責任を負うことができないんだ。」

 

話は飛んでドラマの話題から逸れる。「これは華人社会の婚姻における共通の問題だ」この社会で男はどうやって「良き夫」を演じようかと考え、一家の大黒柱として妻子の面倒を見る義務があると認識している。それゆえ、夏柏峰の現在の妻が腹を立てて前妻とは二度と連絡をとるなと要求しても、彼は友人の助けを借りてでも前妻と息子が抱えるトラブルを片付けてやらねばならない。ついには双方からのプレッシャーに耐えかねて苛立ちを露わにする。「お前たちのためにやってるんじゃないか!」

 

「二人の愛が重荷になったなら 認めないのはなぜ
    そうすればとうとう独りになってしまうから
        ちょうど初めて出会ったころのように……」

             ―陳淑樺、李宗盛「你走你的路」

 

 

「君は君の道をゆく」は、愛の物語と言うには酷なストーリーだ。もし大衆の好みに合わせていれば、夏柏峰は間違いなく前妻とヨリを戻し、昔のように再び愛情に火が点いたことだろう。だが現実はおとぎ話のようにはいかない。視聴者の目にはただ、身動きのとれなくなってしまった夏柏峰と、救いの手もなく孤独な鄭佩盈の姿だけが映る。添い遂げると誓った言葉も時の流れには逆らえない。

 

 

最近の曲が昔のラブソングにかなわないのはなぜ?

 

『滾石愛情故事』のテーマの一つになった「君は君の道をゆく」は陳淑樺と李宗盛のデュエット曲で、黃健瑋にとっても思い出深い曲だそうだ。この曲はアルバム『夢醒時分(夢から醒める頃)』に収録されたもので、彼は両親がカセットを買って、車で出掛けるときにかけていたのを繰り返し聴いたという。「あのアルバムは耳にタコができるほど聴いたから、どの曲も印象に残っている。陳淑樺は本当に歌がうまいから。」

 

youtu.be

 

『滾石愛情故事』の全20話の中で使用されるラブソングはどれもひと昔前のものばかりだが、今も味わい深く、新鮮な感動に巡り合わせてくれる。「昔のラブソングの方が良い」と言われるのはなぜだろうと聞いてみたところ、黃健瑋は二つの理由を挙げてくれた。一つには、歌が生活と結びついているから。恋をしている時は決まって琴線に触れる一曲があって、その曲や曲の雰囲気が記憶と一つになって、一生特別な一曲になる。二つ目に彼は、懐メロの歌詞の方が良く書けていて心に響くからだ、と残念そうに答えた。以前は想いを伝えるために文字を書く必要があったため、どの文字にも重みがあった。今では指先一つで文字が打てて、気軽に消したり直したりできる。一つ一つの文字に込められる感情もその厚みもあまりに違って、昔の曲の美しさにはかなわないと感じられてしまう。

 

とは言いつつも、黃健瑋は若い世代の創作の力を信じてもいる。たとえば最近注目の「草東沒有派對(No Party For Cao Dong)」は若者の社会に対する不満を歌にしているが「ああいうのすごくいい」と彼は言う。

 

 

芝居を観れば誰もが思わず心惹かれる

 

ドラマ産業に始まり、流行音楽や社会の生きづらさについて語ってくれた黃健瑋。まだまだたくさんの意見を共有したいと考えている。普段は読書を好み、また自身のフェイスブック上で社会問題に関することをシェアして議論するのも好きだというが、思うようにいかないこともあるそうだ。「重要なメッセージをシェアすることがよくあるんだけど、誰もいいね!してくれない。けれど奥さんと娘の写真をアップするといいね!が100も付く…そこは重要じゃないのに!」

 

正真正銘、演技派俳優の黃健瑋は、多忙な生活の中でも本を読み、考えることを忘れない。そうして得たものをドラマで生かし、リアルな人生模様を生き生きと演じている。彼の芝居を観れば誰もが思わず心惹かれるだろう。

 

黃健瑋こそ、役者の鑑と言えよう。

 

 

【訳者メモ】

このブログを読んで下さっている方の中に、台湾ドラマを観たことのある人はどれくらいいるだろう。数年前には韓流が一世を風靡したけど、その陰で中華圏の映画や音楽、テレビドラマといったいわゆる「華流」と呼ばれるポピュラーカルチャーも日本に入ってきていて、一部の根強いファンを獲得しつつぼちぼち浸透しているという感じがする。日本の漫画『花より男子』や『イタズラなkiss』なんかが台湾でドラマ化されて、それが逆輸入されたりも。

記事のタイトルにある台湾の「アイドルドラマ」というのは、主に若手アイドルグループのメンバーだったり、話題のイケメン俳優なんかを主役に据えて撮られた“アイドルありき”のドラマ(だと私は解釈してます)。実際、この記事にあるような女子が憧れるシンデレラストーリーものが多く、胸キュン狙いのシナリオがふんだんに詰め込まれていて、私なんかは観てたら鳥肌が……ドキドキするけどすぐにお腹いっぱいになっちゃう。

台湾のドラマってそういうのばかり…という私の固定観念が打ち破られたのは、2011年に放送された『我可能不會愛你』(邦題:イタズラな恋愛白書)を観たときだった。胸キュンの仕掛けはもちろんあるんだけども、幼馴染という関係からすれ違い、互いを想う気持ちに徐々に気づいていく二人の、曖昧な大人の恋が巧みに描かれていて、台湾でも大ヒットしたドラマ。これの脚本を書いたのが徐譽庭という人で、同じく『妹妹』(邦題:僕らのメヌエット)というドラマを書いたのもこの人。で、そのあまりに“現実的すぎる”どんでん返しの結末にネット上で議論が巻き起こったほど。

台湾ドラマってアイドルドラマばかりじゃない(なくなった?)んだなーと最近は思う。でも翻訳されて日本に入ってくるのは、ほとんどが需要のありそうな有名アイドルを起用したドラマだという印象がある。残念な気もするけど、アメリカのドラマほどメジャーなわけではないから仕方ないか…でもこれから増えてほしいな!そして字幕翻訳の仕事できるといいなあとこっそり野望を抱いている。

オムニバスドラマ『滾石愛情故事』はストーリーだけでなく、台湾で愛されてきた流行歌を知ることもできてよかった。あと、いろんな俳優が登場するから退屈しないし演技を見比べたりなんかして好みの俳優さんを見つけられる(笑)。映画『白米炸彈客』のほうは、黃健瑋のシリアスな演技と、生まれ育った土地を愛する思いが込められた台詞に胸を打たれた。次に台湾へ行くときにDVD探すかな。(『麻醉風暴』はまだ観てないのでこれから!)

 

追記:台湾では『麻醉風暴2』が放送されるとのこと!

*1:2015年放送、公共テレビ製作。英題は“Wake Up”。善良な麻酔科医が医療事故に巻き込まれ、病院という組織、さらには過去に負った心の傷と対峙していく医療サスペンス×人間ドラマな物語。

*2:2014年公開(日本未公開)、監督:卓立、脚本:鴻鴻、金篤蘭。直訳すれば白米爆弾犯=ライス・ボンバー。台湾で実際に起きた事件を題材にした作品。白米を仕込んだ爆弾を街に仕掛け、WTO加盟以降、農業を軽視する政府に抗議しようとした楊儒門という人物の物語を描く。ジャーナリストの野嶋剛さんがご自身のサイトで紹介されているのが分かりやすいので参考に。

*3:2016年4月から放送されているオムニバス形式のドラマ。邦訳すれば『ロックレコードと恋人たち』といったところだろうか。「ロックレコード(滾石唱片)」は台湾の大手レコード会社のことで、そこに所縁のある20の楽曲をモチーフに、20通りの恋愛ストーリーが描かれる。現在第16話まで放送済み。第1話では日本でも比較的名の知れているレイニー・ヤン(楊丞琳)が出演していたりする。

パン職人・呉宝春が母から教わったこと

※本記事は、掲載元《民報》より翻訳及び転載の許可を得た上で投稿しています。
 原文:媽媽教吳寶春的事:做人不要怨天尤人! | 民報 Taiwan People News(文:楊惠君、2016.5.6)

 

パン職人・呉宝春が母から教わったこと

 

どんな成功者にも、陰で支えてくれる力強い存在がいる。そこには女性の、とりわけ母の姿があることが大半だ。パン職人の呉宝春(ウー・バオチュン)にとって、人生に立ち向かい、努力する先にある願いはただ一つ「母の誇りになる」ことだ。

 

呉宝春の店はパン屋なのに、どうしてパイナップルケーキを売っているのかと不思議に思う人も多いだろう。その商品名も「無嫌パイナップルケーキ」という、パンとは何の関係もなさそうな名前だ。「まさか、しょっぱいパイナップルケーキってことですか?(中国語で「嫌」という漢字と「しょっぱい」を意味する「鹹」という漢字が同じ発音であるため)」と知らずにたずねる人もいる。実はその由来は、生活が非常に苦しかった時期、呉宝春の心に沁み込んだかけがえのない“やさしさ”にある。そこには、彼の母親であり、パイナップル農婦として苦労を重ね働きとおした陳無嫌さんの “前向きに人生を受け入れる”という生き方が込められている。

 

 

総統府前をうろつくサンダル姿の浮浪者が
総統府へ招かれるまで

 

先日、呉宝春と弟子の謝忠祐が民報文化講堂で対談を行った際、呉はこう語った。「母さんは人生について大袈裟な道理を説くようなことはありませんでしたが、たった一つだけ教えてくれたことがあります。それは『不満を他人のせいにしちゃいけない』ということでした。この言葉をずっと心に刻んで生きてきて、どんなに苦しくて、どんなに落ち込んでいる時でも、屁理屈をこねたり、誰かのせいにするようなことはしませんでした。一歩一歩着実に進んでいけばいいんだと。若い同僚たちとこういう話をすることもあります。」

 

17歳で屏東から台北に出てパン職人に弟子入りした頃は、体重がまだ50キロもなかった。小柄な呉宝春には毎日途方もない数の仕事があり、夜は工場内の狭い屋根裏部屋に寝泊まりし、休みは一か月に二日しかなかった。財布の中身は空っぽで屏東へ帰る時間もなく、気晴らしをするだけのお金もなかった。とはいえ、悶々とした工場の中であぶらぎった臭いをかいでいるのも嫌だった。

 

安いサンダルを履いて、中正紀念堂広場(現在の「自由広場」)の前の塀の辺りまであてもなく歩き、空や、人や、鳥を眺める。これが呉宝春少年にとって唯一の楽しみだった。ある時はぶらぶらするうちに総統府の前までたどりつき、博愛特区のいかめしい警備員に目をつけられ、“だらしない身なり”の少年は威嚇され追い払われた。

 

「パンを作って賞をもらい、総統の客人として総統府の中に入る日がくるとは、思ってもいませんでした」2008年にはベーカリー・ワールドカップ団体の部で二位を獲得し、馬英九総統に謁見した。総統府に足を踏み入れたその時のことを、呉宝春は「あの頃サンダルを履いて、外をうろついていた17歳の自分の姿がすぐさま脳裏に浮かびました」と語る。

 

 

受賞パンを生み出した、
故郷の母との思い出の香り

 

故郷の家を出てから奮闘すること早二十年、呉宝春が歯を食いしばってでも前に進むことができたのは、母がくれた力に報いたいという思いがあったからこそだ。

 

当時、呉宝春が連休をとって里帰りすると、貧しいながらも母はおいしいものを特別に準備して彼の帰りを待っていた。ある時、事前に連絡せず家に帰ると、食卓の上にはただ「パイナップルの塩漬け(醃鳳梨)」があるだけだった。そこで初めて、母が一人でどんな生活をしていたかということ、その苦労を今まで何一つ漏らさず、子どもたちを笑顔で迎えていたのだということを知った。

 

ベーカリー・ワールドカップ世界大会(2008年)への出場資格を懸けた2006年のアジア大会への出場を前に、母がこの世を去った。呉宝春はスランプに陥り、コンクールの課題「自国の特色を生かしたパン」についてインスピレーションが湧かず煮詰まっていた。ある日、大武山のふもとにある地元へ帰り、故郷の地を歩いていたところ、ふいに馴染み深い香りがしたのだった。「あれは毎年冬至になると母さんが食べさせてくれたリュウガンのおかゆ(桂圓糯米粥:乾燥させたリュウガンの実を使ったおかゆ)の香りでした。急にアッと閃いて、母さんのためにリュウガンのパンを作ろう!と思ったのです。」

 

これこそ、彼が初めて世界で名を上げ、のちにワールドカップで準優勝することになる「リュウガンと赤ワインのパン(酒釀桂圓麵包)」の原点である。天国の母が導いてくれたものだと、呉宝春は信じている。「アジアカップ当日は、ちょうど母の日だったんですよ!」

 

 

母の名で基金会を設立、
パイナップルケーキで社会貢献を

 

しかし、彼の名が世間に知れ渡るその時を、母と分かち合うことはできなかった。2010年、いよいよ個人の部で優勝を果たすと、呉宝春ベーカリーを開業し、翌年には母の名前をとった「陳無嫌基金会」を設立。店で売られている「陳無嫌パイナップルケーキ」は、パイナップル農家として働いた母に捧げられたものであると同時に、この商品の収益はすべて基金会に寄付され、地方の子どもたちの学習や就業を援助するために用いられる。

 

民報文化講堂で開催されたイベントには、パン作りの仕事に強い関心を持つ子どもたちが各地からやってきて呉宝春と謝忠祐の講座を聴講した。子どもを連れてやってきた父や母の姿も少なくなかった。

 

そこで、我が子を思う一人の母親が質問を投げかけた。「うちの子はパン作りが大好きなんですが、今後、台湾の市場は飽和してしまうんじゃないでしょうか?」

 

呉宝春はこう答えた。「市場が飽和するかどうか?もう飽和状態ですよ。どんな分野でも、自分の業界は飽和状態にあると考えるでしょう。ただし、だからといって、その中で自分の市場を作り出せないわけじゃないでしょう?お父さん、お母さんたちがお子さんの手を放してあげれば、彼らは努力して、最終的に壁にぶつかって、躓いて倒れたとしても、起き上がって、また羽ばたいていきます。やる前から引き止めていては、一生飛ぶことはできませんよ。」

 

母の力とは、繋ぎとめるのではなく、手を放してあげること。自ら手本となり、見守ってあげること。幾度となく壁にぶつかり、躓くことを経験して今のように青空を高く飛ぶ呉宝春が、母の姿から導き出した道理がここにある。

 

呉宝春ベーカリー(吳寶春麥方店)公式サイト

http://www.wupaochun.com/

 

 

【訳者メモ】

このブログ、タイトルに「パン」が盛り込まれているからにはパンの話をせずにはおれぬ!と思っていたところ(ただパンが好きなだけ)、ちょうどこの記事を見つけたので紹介してみました。

受賞したリュウガンのパンをぜひとも食べてみたい!と思い立ち、台北のお店を訪れたのは2014年春のこと。一つ分が人の顔よりも大きくて、とんでもじゃないけど一人じゃ食べきれない…と諦めてタロイモのあんパンを買って帰った覚えがあります。(もちろん美味でした!)

台湾へ旅行に行くと、必ずと言っていいほどお土産に買って帰るのがパイナップルケーキ。今ではブルーベリーやクランベリーを入れたもの、生地に鉄観音茶を練り込んだものなど、種類がありすぎて選ぶのにも一苦労だ。呉宝春のパイナップルケーキも頂いたことがあるが、丸くてコロンとした形に、甘すぎなくてポイポイ食べれちゃう癖のないお味でございました。

昨年、台湾の友人が日本に遊びにくる時に「お土産なにがいい?」と聞かれたので、思い切ってリュウガンのパンをリクエスト。あんなでかいパンをわざわざ台北から持ってこさせたことを反省しつつ、惜しげもなくかぶりついた。乾燥されたリュウガンがふんだんに練り込まれていて、口いっぱいに香りが広がる広がる。食感は大きいレーズンという感じ。香りが独特なので、苦手な人もいるかも。

ちなみにこちらのサイトで記事になっていた。

rocketnews24.com

日本へも配送してくれるみたい。

台南の能盛興工場ーとびっきり苦い小確幸

※本記事は、掲載元《報導者》より翻訳及び転載の許可を得た上で投稿しています。
 原文:台南能盛興工廠:最苦的小確幸(文:劉致昕/写真:王文彦、2016.4.27)

 

台南の能盛興工場ーとびっきり苦い小確幸

 

近年、古都台南には「小さくても確かな幸せ」のムードが充満し、若者がさまざまな店を開いて観光客から注目を浴びている。

ある若者たちが市の中心地にある廃鉄工所を改造して作った「能盛興工場」は、社会と関わり、社会問題に積極的に切り込むという一風変わった姿を見せている。独立書店、パフォーマンス空間、ゲストハウスやファーマーズマーケットからLGBTのプライドパレードまで、その数々の活動が地域で波紋を呼んでいる。

 

 

台南の歴史ある建物で、あなたなら何を味わう?

 

 スイーツ、カルチャー・クリエイティブ、ブランチ、ゲストハウスと、毎月200万人を超える旅行者の数に影響を受け、歴史ある建物が台南の新しい味わい方を開拓する場所へと姿を変えている。そんな台南を、ここ数年のメディアは「小確幸の城」と呼ぶ。

 

ところが、若者たちが資金を集めて築80年以上の鉄工所を借りてできた能盛興工場は、「とびっきり苦い社会問題」を提供してくれる。

 

「いらっしゃい、野菜市だよ!」週末の台南でどこよりも人だかりの多い神農街、正興街では、ギターやジャンベ(アフリカの打楽器)を背負った若者たちが路上で声を上げている。毎月第三週目に開催される「能盛興野菜市」には郊外の個人農家が一挙に集まり、有機コットン製の下着、手作りのドライフルーツ、無農薬野菜などが廃鉄工所にずらりと並ぶ。入り口では大きな鍋で薬膳鶏鍋(燒酒雞)が煮込まれ、薪がゆっくりと燃え、道端では美容師がヘアカットのボランティアをしている。これらの収益の三分の一が能盛興の「エコ基金」となる。

 

夕方になると、四、五十人が集まって「工場」内で一人50元の夕食を食べる。能盛興の道端のテーブルに個人農家の野菜が並び、露天商、旅行客、地域のお母さんたちが野菜をつまみながら互いの農地の話をする。「こういう調理の仕方があったのね」「若い人たちが一緒に食事したいと思ってたなんて」というように。世代も、生まれた街も、国籍さえも違う人たちが一緒になって台湾という土地の味を体験する。

 

中心街に位置する廃鉄工所を借りたのは「最初はただ基地が欲しかった」から、という能盛興メンバーの普京。何人かの友人とともに理想の暮らしを作り、環境、性別、食品安全問題についての理念を形にしたいと考えたのだと話す。

 

早くも二年が過ぎ、独立書店、パフォーマンス空間、さらには毎月の市場と、この場所はいまや100、200のボランティアコミュニティが集まる基地となっている。大規模な集会を4度開催し、なかには一週間の呼びかけで3000人以上の参加者を集めた反核デモもある。日本のバンドが演奏に来たり、ドイツやアメリカからの宿泊客が代わる代わるやってきたりして、彼らの小さな支えとなっている。

 

 

とびっきり苦い小確幸
ー清掃員、セメント工、塗装工、なんでもやった

 

都会の鉄工所に理想の“くに”を建てるための代償は計り知れなかった。

 

ただの古い建物だったものを、半年以上かけて自分たちの手でトンカチを鳴らし、大工や鉄工の技術を少しずつ身に付けながら改装した。開業してからは、工場の家賃を分担し、食べていくためにも、塗装工から工事現場の作業員、果物の収穫、水道・電気技師の補佐、清掃員まで、メンバーは女子を主体としながらも、どんな仕事でもやった。さらに元々モデル、ドラマー、バンドマン、建築学科出身だった彼らの技術も駆使して、理想のためにあの手この手で生計を立ててきた。

 

そういった状況であっても、関連したテーマを扱う団体、展覧会、パフォーマンスのためには無料で場所を貸し出している。それもこれも、理念と都市生活との継ぎ目を「溶接」するためだ。

 

「私たちはここを家みたいなものにしたいんだ」能盛興メンバーの高郁宜は、この場所をオープンにして、誰でも包み込めるようにすることで、理念を同じくする、あるいはよりよい暮らしを追い求める人々がここで仲間を見つけられるのだ、と話す。

 

毎晩の夕食もその例の一つだ。都会で働く仲間、友人が仕事を終えて円卓を囲み、まるで本当の家族のように、キッチンから運ばれてくるごはんを一緒に食べる。

 

店の経営という点で見れば、毎月の家賃と営業収入はすでにつり合いが取れているものの、事業として成功しているとははるかに言い難い。社会運動という角度から見るのであれば、能盛興は社会問題を都市での生活の中へ落とし込むことのできたコミュニティ運営者と言えるのであって、実生活に寄り添った方法で問題に取り組み、より多くの人々をコミュニティの中に引き入れることに成功している。

 

野菜市を通じて食品安全問題を考え、地元の個人農家を支援するという取り組みが一つ目の成功例だ。郊外の個人農家との協力により、よい農作物を都市に運ぶことができるだけでなく、農家同士が互いの経験や技術の話題で交流できる。さらには工場内に雑貨店を設置し、個人農家の作物を長期的に販売している。「だれでも体にいいものを食べられるようにあるべき」高郁宜は、夕食を共にすることで忙しい社会人や料理ができる環境にない若者も良質な食事が摂れるし、みんなで食べて農家を支援できるのだ、と話す。

 

もう一つの事例として、婚姻の平等をめぐる問題がある。

 

 

同性愛者の愛にも違いはない。
200人でお祝いした「彼女と彼女」の結婚披露宴

 

家族と呼び合う能盛興の中で、高郁宜と林昱穎は200人を招待して結婚披露宴を行ったことがある。その目的は、なじみのあるやり方で、なじみのない愛についてより大勢の人に知ってもらおうというものだった。

 

二人の女の子が、ごく普通の結婚式における二人の主役のように、テーブルを一つずつまわって祝いの酒を酌み交わす。親しい友人だけでなく、能盛興の隣近所の人たちもやってきて路地いっぱいに椅子が埋め尽くされる。披露宴会場では世代を問わず皆が二人を祝福し、普通の結婚式となんら変わりがなかった。ご祝儀を贈ることができるほか、台南市政府に向けて同性パートナーシップ条例を求める署名にサインすることもできる。

 

「結婚式を終えて、次に何ができるかって考えたんだ」と高郁宜は話す。昨年末、高雄、台北では次々と同性パートナーシップ条例が施行されたが、台南ではなんの動きもなかった。そこで能盛興は各地のLGBT団体と連携して台南でのデモを先導、「多様な家庭のあり方を認める法案」の推進を呼びかけた。

 

デモの開催、募金活動からテーマソングのEP盤製作に至るまで、台南で初めての大規模なプライドパレードの試みに、20の市民団体が参加し、2000人以上の署名が集まり、2000人を超える人が街を練り歩いた。

 

「プライドパレードに参加したのはこれが初めて」参加していた36歳の阿豪は、「気楽に歩いていたし、別にマッチョである必要はなかったね」と笑いながら話す。市場で能盛興を知ったのがきっかけで、今年台南へ引っ越すことにした。「そういった理念を、ここなら生活につなげることができる。自分と同じ考えの人がいるんだってことに気づく。しかも彼らはその考えの通りに生活してるんだ。」

 

夕食時の顔ぶれの中には他にもフランスからやってきたJonathan Petragalloがいる。「中に入ってみて、自分はベルリンにいるんじゃないかと思ったよ」彼は笑いながら、能盛興工場はまるでベルリンにある若者の溜まり場みたいだ、と話す。ヨーロッパ一貧しい首都と呼ばれてきたベルリンでは、新しい生活様式や実験的なコミュニティを通じて多様な文化や人材が引き寄せられ、第二次世界大戦による荒廃というイメージの街から前衛的なイメージを持つ街へと変化している。

 

観光の波が押し寄せる台南の、古い建物が立ち並ぶ中で、能盛興という場所が新たな扉を開くこととなった。平均年齢26歳の彼らには高尚な思想があるわけでも、長年にわたり社会問題と奮闘してきたわけでもない。けれども、彼らが自分たちの暮らしを通じて街の真ん中で理念を形にすることで、地元の人や観光客は社会問題と気軽に接することができ、新たな可能性と仲間の存在を知ることができる。

 

「苦労は過程にすぎない」林昱穎は、他のメンバーと同じように、両親からの理解が得られず、経済的にも厳しい状況に置かれ、世間から冷ややかな目で見られることさえあって、それも暮らしの一部だが、仲間はますます増えている、と話す。「苦労はぜんぶ楽しいことに変わる」思い返せば当初、鉄工所はどこから手を付ければいいのかさえ分からないような状態で、火災にも遭った。それが今では、地域のおばさんたち、外国人までみんな能盛興へ野菜を買いに、ごはんを食べにやってくる。彼らの理想の暮らしは、鉄工所から社会へとゆるやかにつながっている。「(壁にぶつかれば)乗り越えて、また乗り越えて、それを積み重ねて、常に前に向かって進んでいる感覚がある。それで十分だよ。」林昱穎はこう語る。

 

能盛興工場(能盛興工廠)Facebookページ

https://www.facebook.com/ffffactory

 

 

【訳者メモ】

2014年6月に、実はこの能盛興工場という場所に宿泊したことがある。記事に登場する高さんが工場の部屋の一つ一つを案内してくださって、人が住める状態に改装するまでの苦労話を冗談交じりに語ってくれたのを今でも思い出すことができる。ぜひ原文ページの写真を覗いてみてください。市場の様子が見れます。

台南は台北よりも雨が少なくて、夏はもちろん暑いけど比較的過ごしやすい場所。物価も台北より低いし、次に台湾に住むなら絶対台南がいいな~思い焦がれているところ。そのときにはまた能盛興工場に遊びに行こうと思っている。

ところでタイトルにもある「小確幸」ってご存知村上春樹がエッセイの中で言葉ですが、タイトルに使われるくらい台湾でも一般的に知られてる言葉なんだなと、改めて村上春樹の人気度を思い知らされる次第。

はじめに:このブログについて

はじめまして。

このブログでは、翻訳家見習いの管理人が、中国語で書かれている台湾に関する情報(主にネット上のニュースや記事、映像など)を日本語に翻訳してシェアします。
台湾の小さな島で、どんな人たちが、どんなことを考えながら、どんな風に暮らしているのか。ここではそんな、台湾のひとびとの日々の暮らしや考え方が垣間見れるようなコンテンツを少しずつ翻訳して、自身の備忘録ともしつつ、紹介していきたいと考えています。

 

わたしが初めて台湾を訪れたのは2011年の夏。
南国の熱気溢れる街で、ユニークでお茶目な台湾の友人たちと出会い、夜市のうまいものをたらふく食べ、つかの間のバカンスを楽しんで帰る、それだけのつもりでした。けれど台湾の街を歩き、同世代の友人やおじいちゃん、おばあちゃんたちと話すうちに、台湾のことをもっと知りたいと思うように。

台湾と日本の関係、台湾と中国の関係。
複雑なアイデンティティ、多様な文化。
そして台湾映画や台湾語歌謡のおもしろさ。

訪れるたびにまた違った側面を見せてくれる不思議な島。一方で、日本人から向けられる「台湾は“親日”」というステレオタイプなまなざしにも気づきました。

 

台湾のことを、いろんな角度から見つめてみたい。
台湾の人たちの何気ない日々の暮らしや考え方に近づいてみたい。
そこから得られるものや、自分がおもしろいと思ったことを、日本の友人たちにも知ってもらいたい。

こんな思いからブログを立ち上げました。

 

やっていくうちにどんな方向に向かうか分かりませんが、とりあえず翻訳の練習も兼ねてコツコツ更新していくつもりです。台湾ドラマ、映画好きな管理人の個人的な趣味をたびたび織り交ぜることもあるかと思います。
このブログを読んでくださっている通りがかりのあなたが、台湾に関心を抱くきっかけをつくることができたら、とってもうれしいです。

 

※翻訳する文章に関しては、原文の掲載元または筆者に了解を得た上でブログ上に投稿いたします。転載を希望される方がもしいらっしゃいましたら、一声かけていただけるとありがたいです。