台湾あれこれ、時々パン。

台湾に関するWeb上の文章を翻訳しています。パンはあんまり関係ないです。

歌詞邦訳 陳惠婷《時間的孤島》/陳恵婷『時間の孤島』

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時間の孤島  陳恵婷(Huiting Chen)

 

私の目尻から 孤独の錨が降ろされ
愛なる世界で苦笑いを覚える
あなたの目尻から 涙の通り道が刻まれ
これから先はずっと 静寂がとめどなく流れゆく

ここは時間の孤島 どこにも逃げ場はない
ゆっくりと気づけば年老いている
私たちは誰もが孤島 それぞれの座標を守り
心という名の海に隔たれ彼方を眺める

いつのことなのか なんて考えたことはなかった
愛が行き詰まった時
時は真空に封じられた
ゆったりとした流れが 私をあちこち漂わせ
四季の移ろいも
懐かしい世界のことも忘れてしまった

微かに覚えているのは 果たせていない夢
償いたい過ち
あなたの温かな手
でも時は味方せず 長い間憂鬱を抱えた
隙を見せれば呑み込まれてしまう
すれ違う定めのめぐり合い

私の目尻から 孤独の錨が降ろされ
愛なる世界で苦笑いを覚える
あなたの目尻から 涙の通り道が刻まれ
これから先はずっと 静寂がとめどなく流れゆく

ここは時間の孤島 どこにも逃げ場はない
長い夢から醒めれば年老いている
あなたの存在する孤島 そこに身を寄せたい
けれど心という名の海に隔たれ たどり着けない

 

(訳:Misa Hirose)

 

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大好きな陳恵婷の曲 邦訳を少しずつ…ほかにも下記

歌詞邦訳 陳惠婷《金色的河流》/陳恵婷『金色の川』 - 台湾あれこれ、時々パン。

歌詞邦訳 陳惠婷《金色的河流》/陳恵婷『金色の川』

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金色の川  陳恵婷(Huiting Chen)


まばゆい月が昇るころ
この先へと歩いていこう
美しい川の流れに沿って
星たちに先導を任せ
静寂の中で手を取り合う
それぞれの夢を追いながら

世界から置き去りにされてもいい
居場所など気にしない
心に住む子供は永遠に無邪気
金色の流れ 果てなく続く


砂利に覆われた川岸
二人は静かに向き合い
時の流れるまま 言葉はいらない
心を流れる金色の川は
覚えたてのやさしさを乗せてゆく
どんな隔たりも越えて 通じ合いきらめく

世界から置き去りにされてもいい
本当に居場所がなくたって
冷酷な未来も恐れない
金色の流れ あたたかく深く

 

(訳:Misa Hirose)

 

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大好きなアーティスト・陳惠婷。
台湾ではバンドTizzy Bacのボーカル&キーボードとして有名。
最近ではサマソニ2018にも出ていてびっくり。
アップテンポな曲もいいけど彼女の書くゆったりめの曲も素敵。

 

清朝末期、日本統治時代の食卓へタイムスリップ!

掲載元:研之有物 - 串聯您與中央研究院的橋梁 │ 數理、生命、人文科學知識分享平台
原文:穿越!回到清末、日治時期吃飯局 - 研之有物│中央研究院台灣飲食史研究(編集:林婷嫻)

 

清朝末期、日本統治時代の食卓へタイムスリップ!

なぜ「食文化史研究」が重要か?

単に食べ物を口へ運ぶ過程だけが食事ではない。先人がどのように食事していたのかを探究することで、彼らの生活を理解することもできる。清朝末期、日本統治時代の台湾人にとって、「酒楼」での宴会はビジネスに直結していたし、家での「すき焼きの会」は、植民統治下での気晴らしの機会だった。中央研究院台湾史研究所の曾品滄(ツォン・ピンツァン)副研究員による食文化史研究を参考に、歴史をさかのぼり、古人の食卓に接近してみよう。

 

清朝末期にさかのぼる
歌もあり劇もあり、食事の時はスマホを見ない

2016年の台湾では、親しい友人たちと高級レストランで食事をし、生演奏を楽しむことができる。あるいは、手の込んだ料理をテイクアウトすることもできる。そうすればキッチンで汗だくになることもなく、料理が下手なことに悩む必要もない。こういったグルメの嗜みは今の時代だけの特権ではない。清朝末期の台湾では、すでに「酒楼」というものが登場し、当時の紳士階級はここで宴会を開いたり、出前を頼んだりすることができた。

酒楼ができる以前、生活様式にうるさい紳士階級の人たちは自宅の「花庁」(いわゆる客間)で客人をもてなした。例えば、台北市板橋区にある林家の白花庁や、霧峰林家の宮保第にある大花庁がある。現代人は食事の時も俯いてスマートフォンを触り、会話も少ないが、清朝末期の紳士は食事の時間を無駄にしない。ゲストたちは花庁で絶品料理を味わいつつ、歌を聴き、劇を見る。視覚と聴覚、そして味覚と嗅覚とが織り成す饗宴を堪能するのだ。

清朝末期に開港してから、台湾を訪れる文人、豪商、官人の数は増え、接待へのニーズも高まった。消費力が大きく、センスと舌の肥えた客層は、食事のための高級かつオープンな消費空間を求めるようになり、それが「酒楼」の登場するきっかけになったと考えられる。

社交的な場が苦手で無口な人でも、清朝末期の酒楼なら馴染めないことを不安がる必要はない。

なぜなら、当時の酒楼では「芸者(芸旦)」の歌を聴いて、「歌劇団(梨園)」の芝居を見ることができたからだ。芸者による演奏は、今の台湾でいえば忘年会に歌手を呼んで歌ってもらうようなことだ。芸者は曲師(楽器演奏者)の演奏に合わせ、哀愁漂うゆったりとした南管や、賑やかな北管、乱弾(地方劇の一種)の曲を歌った。現代では歌手の「蔡依林(ツァイ・イーリン)」が引っ張りだこだが、清朝末期の台北では「阿波」が、その素晴らしい歌唱力により人気を博した。酒楼の中には、中国大陸の福州からわざわざ歌劇団を呼び寄せるところもあった。宴会の間に押し黙っている必要はなく、お腹を満たした後はさらに音楽によって文化的な雰囲気が高まった。

当時の酒楼で食事するというのは、一体どんな心地だったのだろう?以下の詩から想像していただきたい。

「正是酒樓風景好,囊中只少買山錢。」

  酒楼は実にいいところだ。
 (山を買って)隠居するためのお金など懐には残らない。

   ──〈郡寓雜作〉, 咸豐年間噶瑪蘭貢生李逢時(1829–1876)

 

日本統治時代にさかのぼる
料理は多様化、酒楼は健在、美女に付き添われながら

1895年から1911年の間に政権は日本に変わり、それに伴い台湾では酒楼が一層栄えて、日本人の開く日本料亭と西洋レストランが登場した。

現代人が日本統治時代に戻れば、本格的な日本式、西洋式料理に気分も高まることだろう。だがこの頃の日本料亭と西洋レストランの客は大部分が日本人だった。日本料理は生もので冷たいものが多く、二時間も正座したまま食事をすると足が痺れて立ち上がれなくなる。また、西洋料理はテーブルマナーが多い上に高価だ。そのため、いずれも台湾人の口と習慣には合わなかった。

清朝では、官職に就いて出世するには科挙を受験するという道筋があった。しかし、日本統治時代に科挙制度はなくなり、重用されたければ日本人との交流、接待、人脈の開拓に力を入れ、自身の社会的・経済的な地位と実力とを知らしめる必要があった。当時、多くの台湾の紳士たちは、私的な領域である「花庁」から公共空間としての「酒楼」へと、宴会の場を徐々に移すようになった。現代の言葉で考えるなら、「花庁」はホームパーティーの会場、「酒楼」は外でパーティーを開く際のレストラン会場だ。

したがって、日本料亭と西洋レストランが登場してからも、台湾の紳士と日本人との主要な集いの場所は主に酒楼だった。たとえば、台北の平楽遊、東薈芳、台南の醉仙楼、宝美楼などがある。

この頃、酒楼では手の込んだごちそうがたくさん提供されたが、ほとんどは福州出身の料理人の手によるもの。福州からきた料理人たちは、もともと清朝の上層社会で専任の料理人をしていて、清朝の官吏たちに個人的に仕えていた。それが政権の終焉、あるいは、技術の修得を機に、酒楼にやってきて存分に腕をふるった。しかし、客人を引き付けたのはおいしい料理だけではない。今も昔も、「娯楽」はさらなる重要素だ。

もし運よくこの当時の宴会に参加することができたなら、芸者や歌劇団の演目を鑑賞できるだけでなく、おそらく「食」と「性」の楽しみを同時に得ることもできるだろう。日本統治時代、日本人により「酌婦」による接待方法が持ち込まれ、すなわち「お酌をする女性」が現れた。主に付き添ってお酒を飲み、おしゃべりをするのだが、お酒が入って出来上がると性的なサービスに至ることもあった。だが袖を脱ぐにはまだ早い。林献堂らの日記には、当時は性病が蔓延していたと書かれているから、おとなしく食事するにとどめておくのが得策と言える。

「演梨園三枱,内地女優一座,藝妓、酌婦侑酒,直燕飲至七時餘方散」

  歌劇団が三つと、内地の女優が一人。
  芸者、酌婦が酒を勧める。七時過ぎに解散するまで飲み明かした。

   ──〈水竹居主人日記〉 ( 1914-02-21 )

 

日本統治時代にさかのぼる
酒楼が嫌なら?家で気ままにすき焼きを囲もう

現在の大学生や会社員は、凍てつく冬の寒さの中、火鍋を囲んで食べながらおしゃべりをする。体は温まり、仲も深まる。こういった親睦のための食事の場と同様の活動が、日本統治時代にもあった。当時の台湾の若者は、酒楼のこだわり抜かれた料理には手が届かないにせよ、集まって食事をする機会が欲しかった。そこで、家で友人とアツアツの「すき焼き」をすることにしたのだ。これは主に、日本の教育を受けたことがあるか、または日本人との交流が深かった知識人が食べていた。

「すき焼き」は日本式の鍋料理の一種で、牛肉、豆腐、野菜が主な材料。台湾人は牛肉の代わりに豚肉、鶏肉を使っていた。すき焼きは一つの鍋で煮込むことから、自由平等の精神を反映していると思われ、皆が一緒に鍋をつついて、自分で取って食べる。誰が誰の世話をするといったルールはないし、気兼ねすることもなく、仲間同士の距離を縮めるきっかけになる。その上、食材の準備は簡単で値段も安いため、当時は友人の集まりに欠かせないものとなった。林献堂は普段からいくつも接待の会食に参加していたが、それでも定期的に親しい友人と代わる代わるすき焼きの会を開いた。酒楼での宴会に比べれば、すき焼きの会の方がよっぽど気楽で酒も進むし、気ままに楽しむことができるからだろう。

 

日本統治時代、中後期にさかのぼる
食事しながら救国談義、台湾の郷土料理が盛んに

ひまわり学生運動、同性愛者のデモなど、現代人が政府に対して何らかの思想や立場を示したければ、街に出て堂々とアピールすることができる。しかし、日本統治時代の台湾の知識人たちは、酒楼でひっそりと集まるしかなかった。 

公会堂といった公共の場での演説に比べて、酒楼の宴席での“開会のあいさつ”は、日本の警察による監視の目に留まることが少なかった。政府は台湾人が集まって食事をしているだけだと思い込んでいたからだ。そのため、当時の台湾知識人、たとえば林献堂、蒋渭水らを筆頭とする台湾文化協会は、酒楼の宴席で反日の思潮を広めようとした。そして蒋はついに「春風得意楼」を買い上げ、台湾人のための社交的な公共空間とする。

1937年、日中戦争の勃発後、戦争期の食糧不足のため、台湾では「郷土料理」というものが改めて注目された。それまで、酒楼でのいわゆる「台湾料理」というのは実は「大陸料理」で、ほとんどが福州、広東または四川の料理人が作る手間のかかる料理だった。たとえば、紅炖魚翅(フカヒレの醤油煮込み)、十錦火鍋(五目鍋)、脆皮雞(鶏のパリパリ姿揚げ)、五柳居(魚の醤油煮込み)など。一般的に台湾人が家で食べるものは簡単な家庭料理で、たとえば空心菜や番薯籤(細切りのイモを干したもの)だ。戦争の影響で外からの食糧供給が滞ると、酒楼の多くは台湾本土の食材を使った家庭料理を宴会にも出すようになった。たとえば菜脯蛋(切り干し大根のオムレツ)、虱目魚(サバヒー)など。以降、宴席には「台湾のふるさとの味」が登場する。

台湾独特の料理を味わい、なおかつ当時の知識人に会いたいというのなら、1939年に王井泉が開いた「山水亭*1」に行くことをおすすめする。大稻埕に位置し、「台湾文化サロン」の名でも評される。

1941年、台湾全土で物資統制の政策が実施され、すべての食糧は配給を通さねばならなくなる。だが山水亭は闇市や北投にある農家から地元の食材を手に入れるルートを持ち、バラエティに富んだ新鮮な「純台湾料理」を頑なに提供し続けた。たとえば刈包(角煮サンド)、雞腳凍(鶏の足の甘辛煮)、炒酸菜蝦仁(高菜とエビの炒め物)、煎菜脯蛋(切り干し大根のオムレツ)、燖醬冬瓜肉(トウガンと肉の料理※訳者もよく分からず)など。テーブルまで産地直送だ。こうして、台湾人の飲食にまつわる生活の伝統を保存して広め、台湾人の生活と感情とを豊かなものにした。

山水亭には広々とした宴会用の空間や、芸者による生演奏があるわけではなかったが、どのテーブルにも花が活けてあり、食事であれ喫茶であれ、いつでも蓄音機から流れてくる音楽を楽しむことができた。そこは戦火にさらされる都会の中のオアシスであり、近代台湾の多くの文芸人にとっては、ホームであった。あなたがもし、休日にファーマーズマーケットに行くのが好きだったり、あるいは美術館やコンサート巡りが好きだったりするなら、過去に戻ることができれば、この時期の山水亭で味わえる郷土食材の美味、台湾の文人たちとの楽しい交流に、きっと満足するだろう。ただひとつ、欠点がある――外では空襲による爆撃に遭うという危険が待っているのだ。

 

 

 

【訳者メモ】

台湾で何が好きかと聞かれると真っ先に「食べ物!」と答えるのがお決まりになっている。特に記事にも登場した「刈包(グァバオ)」なんかは大好きで、日本でも中華街に行けば「中華バーガー」みたいな名前になって出てくるけども、台湾で食べるパクチーの効いた角煮こんもりの刈包の方がやっぱりうまい。思い出したら腹が減ってきた。

*1:前回の翻訳記事「心の扉を開けば―作家・王昶雄の生涯」の中でも、王がよく訪れた場所として山水亭が紹介されている。

心の扉を開けば―作家・王昶雄の生涯

掲載元《民報 Taiwan People News
原文:阮若打開心內的門窗---王昶雄(文:林衡哲、2016.7.1)
※以下、文中の注釈は参考のために訳者が書き加えたもの。

 

心の扉を開けば―作家・王昶雄の生涯

※これは、台湾の作家、王昶雄(おう・ちょうゆう/ワン・チャンション)の生涯について彼の知人である林衡哲さんが書いた記事。日本による植民統治下に生まれ、日本語教育を受けて育った王昶雄は、日本語での文学創作において優れた才能を開花させる。1945年以降、台湾が中華民国の統治下に置かれてからは中国語が公用語とされ、一から言語を学ぶ必要に迫られた台湾人作家にとっては言語的な制約があった。また、1947年の二・二八事件という市民に対する弾圧事件をはじめとして、その後の白色テロによる社会的な閉塞感から、創作を諦めてしまう人たちもいた。そうした中で王は母語である台湾語の歌詞を書くことにより創作の活路を見出し、後には中国語でも歌詞やエッセイを書いている。

代表曲『心の扉を開けば』は、ふるさとや青春を懐かしむ思いの込められた優しいメロディーの曲。作詞者の背景について知ってから聴くと、また違った味わいがあるかもしれない。ということで、以下、翻訳内容。

 

医学と文学の知識を兼ね備えた先駆者

王昶雄の本名は王栄生。1915年に淡水の鎮九坎街(現在の重建街)に生まれた。父は貿易商を営み、母を連れて華南一帯を駆け回っていたため、王は淡水の実家にとどまり母方の祖母の手で育てられた。彼が文学に熱中した理由は、その孤独な少年時代にあるのだろう。彼はよく淡水河のほとりで空想に耽り、夢や記憶について思いをめぐらせていたという。幼くして淡水公学校に通い始め、後輩に李登輝元総統がいる。13歳になると単身で日本に渡り留学に臨んだ。渡日後、まず郁文館中学に入学。達弁で度胸のある彼は全校弁論大会で二度も優勝した。「台湾出身の子ども」が栄冠を勝ち取ったことは、当時の大ニュースだった。

本場江戸訛りの日本語を話せるだけでなく、日本語での作文においても日本人を凌ぐほどの才能を持っていた王は、中学卒業後に志望していた日本大学文学部に難なく合格。二年目には父親の意を受けて日大の歯学部を受験することになる。1942年に卒業し、帰台。20歳の時、日本の雑誌「青鳥」の同人に加わり、同誌に彼の青春詩「私の歌」が掲載された。二年後、季刊誌「文芸草紙」に参加。23歳で詩「陋巷札記」が台湾の「台湾新民報」で発表された。翌年、中編小説としては処女作となる「淡水河の漣」が「台湾新民報」で連載され、台湾の文壇における優秀な新人として期待を集めた。

27歳で台湾に戻ると、故郷の淡水に歯科診療所を開く一方、張文環、陳逸松(ちん・いつそん)らを筆頭とする雑誌「台湾文学」の同人に仲間入りする。西川満の「文芸台湾」と対立していた雑誌である。28歳になる年(1943年)に、彼の人生にとって大事な二つの出来事があった。一つは、淡水の名だたる画家・林玉珠との結婚。彼女は台湾の医療に貢献した著名なマカイ博士(馬偕)の外孫にあたる画家・陳敬輝の一番弟子だった。もう一つは、不朽の名作である中編小説「奔流」を書きあげたこと。本作は「台湾文学」第三巻第三期に発表され、のちに大木書房から出版された「台湾小説集」に収録される。1942年に台湾に戻ってから1947年に二・二八事件が起きるまでの間、彼の日本語による創作は黄金期を迎え、台湾の各新聞、雑誌のあちこちで彼の小説、詩、散文、評論等を読むことができた。1946年には医師としての仕事のほかに、淡水純徳女子中学で歴史の教師を務めた。

王井泉が主宰するレストラン兼文芸サロン「山水亭*1」で過ごした日々は、彼の生涯の中で最も幸せな時間であったことだろう。その場所には王井泉、張文環、呉新栄、陳逸松、陳夏雨、呂赫若(りょ・かくじゃく)、呂泉生といった日本統治時代の才能ある文人たちが集まり、詩や酒を嗜んでは自由闊達に議論し、近代台湾初期のささやかな文芸復興の潮流を導いた。この時期、王は「淡水河の漣」、「奔流」、「梨園の歌」、「鏡」という四つの中編小説を世に出した。いずれも苦心して書きあげられた作品だ。それぞれ題材は異なるが、そこには彼の思想の流れがはっきりと示されている。短編小説では「遠島」、「小丑のため息」、「阿緞の嫁入」、「濱千鳥」、「緋櫻の咲頃」など12篇の力作がある。現代詩は18篇で、抒情的な詩作を得意とし、非常に整った構造で、韻律に富んでいる。文芸評論は25篇で、どれも独立した思考と、鋭い視点に裏打ちされた文章だ。

しかし、二・二八事件*2をきっかけとして彼の日本語創作における黄金期は終わりを告げる。「山水亭」の閉店に胸を痛めるも、旧知の文学仲間が集う和気藹々とした時間はもう戻らなかった。台湾の知識人たちは憂鬱な心情を抱えたまま、二十年近くも筆を手放すことを余儀なくされる。1950年、王は淡水から台北の中山北路へと引っ越し、その後は歯科医の仕事に専念し続けた。

 

代表作「奔流」への評価

「奔流」は王が直接的な手法で反日意識、感情を表現した作品だ*3。親友の陳逸松はかつて「大稻埕20年小史」の中でこのように書いている。

「台湾人作家の作品は数多く読んできたが、王昶雄の「奔流」、呉新栄の「亡妻記」、張文環の諸作は特に忘れがたい。」

「演技派俳優の第一人者」と言われる宋非我も繰り返し読んだといい、名作と名指す。1943年に雑誌「台湾文学」が主催した台湾文学賞を呂赫若の「財子壽」が受賞した際には、坂口䙥子の「灯」と共に王昶雄の「奔流」が奨励賞を受賞した。

「奔流」を発表するために、「台湾文学」の編集長であった張文環は保安課を何度も往来する羽目になったという。また、王の妻からすれば恩師である陳敬輝が、小説の中で悪く描かれていたことから彼女に反対され、さらには読者の間で皇民化小説であるとの誤解を招いた。実のところは、張文環が述べているように「王昶雄の奔流は、皇民化の時代にあって唯一、被植民者の立場を描いた作品であり、皇民化運動が台湾人の精神に与えた屈辱と迫害の苦しみとを暴き出した」作品である。

「奔流」の中で、王は林柏年(りん・はくねん)のように純粋な抗日青年を比喩的に登場させている。当時としては果敢な挑戦であっただろう。文芸批評家の大御所・葉石濤も、「王昶雄が表現したのは、台湾民衆の皇民化に対する抵抗の意志であった」と述べている。

 

60年代、優れた中国語能力で再び表舞台へ

1957年、「山水亭」時代の旧友・呂泉生は辜偉甫(こ・いふ)と共に「営星児童合唱団」を創設。台湾の歌が“植民地化*4”に面する頃、呂は意気込んで王に誘いを持ちかけ、台湾に根差した楽曲のための作詞を頼んだ。王はかねてからスコットランド民謡の「ノスタルジー」や日本の名詩人・西條八十を敬愛していたことから、「大衆歌謡の芸術化、芸術音楽の大衆化」を軸に共同創作を始めた。初めて完成された曲が「阮若打開心内的門窗(心の扉を開けば)」という台湾語の歌曲であったのは、思いがけないことであった。

「この曲のインスピレーションは偶然の賜物だった。故郷を離れて暮らす人は誰でも、ふるさとのあれこれや、田園風景といったものに思いを馳せるもの。異郷でのやるせない日々にとってそれは心の拠り所だ。私にも日本で故郷を恋しく思った経験がある。だからこそ自然とこの曲を書くことができた。」

心の扉を開けば 故郷の田園が見える

千里も続く道なれど 帰郷の願いは絶えることない

故郷よ どこにある? 永遠に心の中にあれ

心の扉を開けば 故郷の田園が見える

 

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1957年、台湾省文化協会男声合唱団が台北の中山堂でこの曲を演奏。その後、瞬く間にキャンパスや巷で有名になり、呂泉生にとってはその生涯で二曲ある代表作のうちの一つとなった(もう一曲は「杯底不可飼金漁」)。のちに20曲余りを共同で制作し、どれも広く親しまれた。

音楽は心の良薬といえるのかもしれない。王は徐々に二・二八事件の暗い影から抜け出し、1965年には再び文壇に返り咲いた。当時になってようやく、彼が日本語同様に中国語(北京語)で優れた文章を書くことができるということが世間に知られた。後輩にあたる黄武忠はこう述べていた。「王氏の文章は流暢で華やか。言葉遣いに奥行きがあって、非常に感服させられる。幼いころから中国語の教育を受けてきた私は、自身の力不足を嘆かずにはおれない。」王が並々ならぬ努力の末に中国語での創作力を身に付けたことは明らかだ。残念なことに彼が小説を書くことはもうなかった。しかし、パワフルな創作力で文学や芸術、人生について次々とエッセイを執筆し、素直な思いを表現した。文章にはユーモアがあり、読み応えがある。彼の残した作品集には「驛站風情(宿場の風情)」、「阮若打開心内的門窗(心の窓を開けば※楽曲と同名)」などがある。

 

台湾文芸界で青々とそびえ続ける木

王はかつてこう話していた。「誰にも三種類の年齢がある。一つは歳月としての年齢、二つは生物学的な年齢、三つは心の年齢。生物学的な年齢は体の状態となって表れ、心の年齢は精神、考え方に表れてくる」。そんな彼は日ごろから水泳と登山を嗜み、歳をとってからもよく泳ぎに行き、また、軽々とした足取りで山に登った。1988年、筆者と友人が誘われて淡水大学で一緒に山登りをした時のこと、すでに70歳を過ぎていたが白髪一つなく、胸を張って背筋をぴんと伸ばし、元気溌剌とした様子で、会話はエネルギーに満ちていた。彼の辞書には「老」という字がないのだ。彼はよく自分のことを「少年のまま大人になった」という。亡くなる半年前に胃がんで倒れるまでは、心の年齢でみる彼は実に、台湾文芸界で青々とそびえ立つ木のようであった。筆者が出会ったベテラン作家の中で、彼は誰よりも生活の中にある芸術を理解している人物だった。

 

晩年は台湾文芸の復興に尽力

王昶雄は度量の大きい人だった。日本統治時代の「山水亭」の店主、王井泉からバトンを受け継ぎ、「益壮会」を主宰してベテランの作家と文芸家を結び付け、総幹事を17年間務めた。生前、最後に招いた講演者が台湾独立運動家の彭明敏(ほう・めいびん)だったことからすると、王もまた文化的な台湾独立を夢見ていたのかもしれない。このほか、「台湾筆会」の活動に積極的に参加し、「北台湾文学」文学集の編集主任を担当し、それは全国文化局編纂の作品の中でも最も優れた文学叢書となった。このように、晩年は台湾文化に関わる活動に力を入れていた。

2000年1月1日、王昶雄はこの世を去る。それは一つの時代の終わりを象徴していた。2000年1月25日、陳水扁元総統は褒揚令の中でこう述べた。「(王は)台湾文芸の復興に生涯にわたり尽力し、我が国の伝統文化を発揚した」。2000年11月4日、淡水の真理大学にて、第四回目の台湾文学家牛津奨が彼に贈られた(亡くなってから受賞したのは王昶雄だけ)。彼の生涯における文学での成功と貢献を称えるとともに、王昶雄文学会が開催され、王が台湾に残した消え去ることのない文学という遺産に皆が思いを馳せた。彼は名誉と人徳を成し、優れた言葉を残して、愛情豊かな人生の幕を閉じたのだった。

 

 

 

【訳者メモ】

私の場合、有名な「奔流」という小説をきっかけにこの作家について知ったのだが、後に鳳飛飛という台湾の歌手が「心の扉を開けば」という楽曲を歌謡曲っぽくアレンジして歌っていたのを聴いて、改めて作詞家としての王昶雄に出会った。

 

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最近でも若いミュージシャンが演奏していたりするので(台湾のバンド、宇宙人のギタリストがライブで歌ってた)、台湾の人にとっては懐メロ的な、親しみのある歌なんだろうなと。歌詞を書いた王さんの人生を知ったうえでこの曲を聴いてみると、故郷や昔の記憶に対する愛着、何かしらの切実な思いがより強く感じられるような気がする。

「心の扉を開けば」の歌詞は四番まであって、それぞれ懐かしく思い起こすものとして「春の光」、「愛しい人」、「故郷の田園」、「青春時代の甘い夢」という言葉が歌われる。歌詞ではどれも今はもうどこにあるのか分からないもの、失われたものであるけれど、ただ心がそれを覚えていればいいのだ、という風に表現されている。

政権が移り変わる中で、自分のアイデンティティがどこにあるのか、故郷とは、祖国とは何なのか、といった問いに常に向き合わざるを得なかっただろうし、それに対してなんとなく折り合いをつけた答えとして、この曲ができあがったかのようにも思えてくる。ってのは考えすぎかなどうかな。

*1:清朝末期、日本統治時代の食卓へタイムスリップ!」という翻訳記事の中でも山水亭が登場する。
「山水亭には広々とした宴会用の空間や、芸者による生演奏があるわけではなかったが、どのテーブルにも花が活けてあり、食事であれ喫茶であれ、いつでも蓄音機から流れてくる音楽を楽しむことができた。そこは戦火にさらされる都会の中のオアシスであり、近代台湾の多くの文芸人にとっては、ホームであった。」

*2:第二次世界大戦後、中華民国国民党に実質的に統治されることになった台湾では、中国大陸出身の人々(外省人)による支配下での政治腐敗、インフレ等に対して市民が強い不満を抱いていた。そんな中、1947年2月27日、役人が台湾出身(本省人)の女性に暴行を加えた事件を発端として、翌28日より市民による抗議運動が台湾全土に広がる。これに対し国民党政府は無差別な武力鎮圧を決行し、多くの犠牲者を出した。これら一連の出来事が二・二八事件と呼ばれる。事件後も知識人を中心として弾圧が行われた(白色テロ)ため、事件について語ることは長らくタブー視され、続く戒厳令下で言論統制はますます厳しくなった。台湾史を考えるうえで欠くことのできない出来事。

*3:「奔流」のあらすじについて。主な登場人物は、内地(日本)から本島(台湾)に帰ったばかりの医師である「私」、流暢な日本語を話す中学教師「伊東」、少年「林柏年」の三人である。物語は「私」の視点で語られる。「私」は当初、日本語の分からない母親の前でさえ頑なに日本語しか使おうとしない伊東の姿に感心する。だが柏年は実の母に冷徹な態度をとる伊東に対して反抗的であり、母を卑下してまで日本人になりきることに執着する伊東に対して、「私」も徐々に疑念を抱き始める。一方で柏年自身も台湾人、日本人というアイデンティティの問題に直面し、葛藤する。完全に「台湾人」としての要素を切り捨て、「日本人」として生きようとする伊東に対し、「台湾人」であることの誇りをもって、かつ「日本人」としても内地の日本人と同等に渡り合おうとする柏年。二人が対照的に描かれ、若い世代である柏年が「台湾人」としての尊厳を守りながら帝国の理想とする「日本人」へと成長していくことに希望を抱かせる作品、つまり皇民化小説として読めなくもない。ただし、物語の最後には柏年の「立派な日本人であればある程、立派な台湾人であらねばならない」という志高い手紙を読んだのち、「クソ、クソ」という悲痛な叫び声をあげて坂を駆け下りていく「私」の姿が描かれている。

*4:当時、日本の歌謡曲や洋楽といった海外の音楽が大量に流れ込み、歌詞だけを台湾語や北京語に変えたカバー曲が流行していた。王は、単なるカバーだけでなく、日本の歌謡曲風に曲調をまねて作曲することについても批判的で、後にこのような当時の状況を「音楽による植民地化の時代」と振り返っている。参考:許俊雅編(2002)『王昶雄全集四』、台北県政府文化局出版、p264。

失ったものはあまりにも多く、もはや土地は戻らない

掲載元《報導者 The Reporter》 
原文:我們失去太多,挽救不回來的是土地——部落青年看原住民傳統領域(文:王立柔/写真:余志偉、2017.3.28)

 

失ったものはあまりにも多く、もはや土地は戻らない
―原住民部落の青年から見た台湾原住民の伝統領域

原住民委員会が公布した「原住民族の土地の区画に関する規定」において、原住民の「伝統領域」から「私有地」が除外されたことに対して抗議するため、原住民グループはすでに一ヵ月余りの間、総統府前で野宿も辞さず反対を訴えている。目下の法的な争議はひとまず脇に置いて、台湾東部の部落へと視点を移そう。多くの部落青年たちが「伝統領域」を知る過程には、彼ら自身のルーツを探る旅があった。そして青年だった彼らが中年を迎えた今も、自分探しの足跡は人生に深く影響を与え、原住民の土地の保存のため、土地そのもののために奮闘し続ける彼らを支えている。 

 

台湾原住民の「伝統領域」に関する争議とは?

台湾原住民の「伝統領域」とは、原住民にとってゆかりのある生活領域を指す。そこには部落の所在地、農耕地、狩猟場、漁場、聖地等、さらに海域や河川も含まれる。しかし百年にわたる外来政権の進入とともに、これらの土地は度重なる略奪を受けた。

今年2月14日、行政院の原住民委員会は「原住民族の土地の区画に関する規定(原住民族の土地の区画に関する規定)」(以下、「区画規定」)を公布。一見すると、原住民が土地に対する権利を主張するための道筋が示されたかのようだが、実際のところは、「伝統領域」の区画規則から「私有地」は除外されたままだ。多数の原住民はこれを受け入れられず、2月23日から総統府前で座り込み、抗議を行い、すでに一ヵ月余りが経過している。

原住民と漢人との土地に対する考え方は違う。「伝統領域」の概念は「所有権」とは異なる。今、仮に市民または企業の私有地が原住民の伝統領域に含まれることになっても、その所有権は変わらない。

カイザー通り(総統府に繋がる大通り)の原住民グループが訴えているのは、伝統領域で商業目的の大規模な開発を行う際、たとえば大きなホテルを建てたり、鉱山資源を採掘したりするといった場合に、ただ部落に事情を伝えて、同意を求めてほしいということだ。

実は以前から、台湾には「話し合いによる原住民部落の同意及び参与の取得に関する規定(諮商取得原住民族部落同意參與辦法)」というものが存在していたが、それは母法「原住民族基本法」第21条に基づく「原住民の土地または部落及び周辺の一定範囲内にある『公用地』」を対象としている。そして今回登場した「区画規定」においても、私有地と伝統領域の概念とは相容れないとされている。つまり、ある私有地が実は原住民の伝統領域の範囲にあったとしても、法律上は伝統領域/原住民の土地と見なされないことを意味する。したがって、原住民がその土地の開発案に対して詳細を知り同意を下す権利を主張することは未だに難しい。

これまでに、東海岸のアミの人々が長年の抗争を経て、ようやく行政院が環境アセスメントを撤回するという形で悪名高い美麗湾リゾート村開発案を退けた、という事例がある。にもかかわらず、現在も孤立無援の立場に置かれ、杉原棕櫚リゾート村、黄金海レジャーリゾート村等の開発案がいつ進んでもおかしくない状況にある。

もし「区画規定」がこのまま変わりなければ、原住民の生活空間を圧迫し続ける可能性があるだけでなく、土地の喪失とともに文化的な意義までも失われるかもしれない……

 

 カワンとシンシンたち

「当時、クメン(アルファベット表記:Kumen/漢字名:余忠国)という人が、伝統領域は私たちのもの、取り戻さなければ、と言っていました。彼はずっと訴えていたものの、皆にはその感覚がなかったのです。それが自分たちのもので、部落が使っている土地なのだと、若い世代に実感してもらうためにはどうすればいいでしょうか?私自身も自分が使用している土地のことしか分かりません。1キロ以上離れたところまで狩りに出て、イノシシを担いで帰るような技術もありません。一つ上の世代なら足をのばしていた場所でも、私たちには身近に感じることができないのです。」

こう話すのは今年で44歳になるカワン(アルファベット表記:Cawan/漢字名:鄭智文)だ。台東県東河郷のアミの人々が住む都蘭(ドゥーラン)部落に生まれ育ち、故郷を離れて大学に進学、就職し、ここ数年でまた部落に戻って生活を始めた。話の中に登場するクメンも都蘭部落で育ったアミの仲間。2001年、都蘭部落は「都蘭鼻BOT(民間資金等活用事業)開発案」に抗議するために伝統領域の調査を自主的に始めた。その際、クメンは熱心に身を投じ、より多くの仲間に参加を呼び掛けた。

当時のカワンはそこまで深く共感しなかったが、クメンの理念はカワンの心に種を植え付けた。そして原住民の問題がますます注目されるようになった2000年代のムードの中で、その種が徐々に芽生えはじめたのだった。

「部落では話し合いをするようになり、年長者たちも、どうしてこんなにも昔と変わってしまったのか?と嘆きました。そして、若者が戻り、昔のように働き、少なくとも文化を伝承する役目を引き継がせることができればと願っていました。その折に私は、必ず故郷に帰らなければと考えるようになったのです。それからは、ここを自分の場所だと意識するようになってきました。」

カワンは自身の力を役立てようと決意した。コンピュータ技術に通じていた彼は、都蘭部落の伝統領域の地図を電子化することに協力、さらに思い付きで地図を拡大出力し、豊年祭の会場に掛けた。これが予想外の反応を招き、場が一瞬で高揚感に包まれると、とりわけ老人は地図上のある部分を指して声を上げた。「そうそう、まさにここだよ!昔はよくあそこで狩りをしたんだ。今では行けなくなってしまったが……」。

 

アミは海の民だ。数世代前から頻繁に山に登ることはなくなったが、海についてはほとんど誰もが詳しい。アミの男性にとって海は冷蔵庫のようなもの。魚を食べたければ自分で海に入り何匹か捕まえて帰ってくる。それはとてもシンプルで、自然なことだ。

だが近年では、アミの仲間が海辺で魚を捕まえている時に、海岸巡防署の巡回員に連れていかれて取り調べを受け、「水域レジャー活動管理規定(水域遊憩活動管理辦法)」違反であると指摘されることが度々起こっている。アミの豊年祭会場を見つけることもますます難しくなってきている。海岸を自由に使用できなくなりつつある今、伝統的な儀式を行うことも難しく、海上で活動する業者が設置した柵のために、普段は思うように潜水をすることさえもできない。

原住民の活動範囲が次第に制限され、生活方式の転換を余儀なくされると、原住民の権利や利益が直接的に脅かされるだけでなく、間接的には文化が失われてしまう。なぜなら、土地の始まりは人の始まりでもあるからだ。原住民文化において地名は、仲間が漁や狩りで方向を見失わないよう、地元の資源、土地の様子、地形を認識するために用いられてきた。祖先が暮らしの中に残してくれた知恵の結晶とも言える。

 

都蘭部落南部にある刺桐(ツートン)部落の一員であるシンシン(アルファベット表記:Sinsing/漢字名:林淑玲)はこう説明する。「アミの人々は昼間だけでなく夜も海に行きます。昔は懐中電灯がなく、月の光を頼りにしていました。けれど潜れば方角が分からなくなるから、その時は岩がどこにあるかを見て判断します。Googleを使うこともできませんしね。海底に何があり、位置はどこなのか?岩を見分けることができなければ、身を守ることも無事に帰ることもできないのです。」

シンシンは堂々とした様子で、土地に関する様々な事柄を丁寧に話す。貝類がよく捕れるのは海底の何時の方角で、どの海藻がどこでよく捕れるか等。しかし、カワン同様、ここ数十年の部落の生活形態に影響され、幼少期に年長者が話してくれた物語を覚えてはいるものの、そこから現実の生活環境を連想できるとは限らない。現在のようにたくさんの知識を得ることができたのも、伝統領域の地図製作に協力するにあたって再度、調査をしたからだった。

たとえば、カワンは地図製作の経験をこう語る。「小さい頃に祖父がよく話してくれたことと繋げてみると、馴染みのなかった地名についても、もっと理解したいとだんだん思うようになり、山林の変化を見に行ってみたくなりました。」 

シンシンが参加した伝統領域の調査作業は、主に刺桐部落とさらに南方の加路蘭(ジャールーラン)部落に関するもの。「年配の人たちの証言からは、以前、ここは実際に皆の活動範囲で、この場所で耕作をして、何かを使って竹を割ったり、茅葺き屋根をかけたりして、海ではどの岩にどんなウニや貝がいたのかといったことが聞けますよ……とても生き生きとした描写で、そこで生活してこそ知りうること、つまり伝統領域のことを教えてくれます。彼らにとって採集や漁をした場所は印象深いんです。誰かがそこで転んだという話が伝わって広まったそうで、そのために地名が変わったこともあるそう。ここにはたくさんの暮らしの物語があります。」 

 

「(開発案に関して)部落の同意を得る必要がある理由も、道理もそこにあります。外部の人間では、ここで過去に何があったのか、或いは何かを建てるために適した場所であるのかどうかということは、絶対に分からない。よそ者が土地を買っても、ここで起きたことについて地元の人間よりも詳しいなんてことはありません。」

シンシンがこう語る時、そこには理屈だけでなく、強い感情が込められている。一度は沈痛な面持ちでこう話した。「この十年間に私たちが失ったものはあまりに多いです。けれど、とりわけこの土地というものは、どう手を尽くしても返ってはこないのです。」伝統領域の調査に深く関わるきっかけとなったのは、2003年に始まった美麗湾リゾート村反対運動だった。

当時、誰もが「ここは私たちの伝統領域だ」と言っていたが、伝統領域とは結局どこからどこまでなのかと、疑問に思っていたのだと彼女は振り返る。加えて、部落がエコツーリズムを開催し始めたことで、部落のこれまでのことを説明する必要が出てきて、彼女にきっかけを与えた。「ルーツを探り、尋ねに行くことになりました……部落の古株や、他の年長者も同じような物語を話してくれる時には、まさにこんな風にして伝えられてきたのだと思い知ったのです。だから、ここが伝統領域なのかと問われれば、その通りだと答えます。」

長年、彼女は数多くの年配の人びとの口述を整理し、彼らが話す場所へ実際に足を運んできた。今では部落について、若い頃よりも深く、詳しく理解している。筆者たちを車に乗せて伝統領域の一帯を通る際、山の斜面にある土地を指さしながら百年前にどう使われていたのかを紹介してくれ、或いはたくさんの地名について、すらすらと説明してくれた。

 

話を聞きながら筆者は、こうしている間にも、彼女の文化がいくらか広められ、伝えられているのだろうと考えた。伝統領域の調査において、結果が重要であるだけでなく、その過程で多くの意義が生じているのかもしれない。また、それは権益を取り戻すための政府に対する訴えにとどまらず、原住民たち自身の文化復興運動でもあるのかもしれない。カワンにしてもシンシンにしても、自分たちの土地で、自分たちの文化について語る時、彼らの言葉は凛として揺るがない。

台湾人がアイドルドラマにハマるのはなぜ?

※本記事は、掲載元《風傳媒》より翻訳及び転載の許可を得た上で投稿しています。
原文:為何台灣人熱愛偶像劇?專訪黃健瑋:那些幻想,讓你暫時忘記人生沒有選擇權…(文:謝孟穎、2016.5.20)

 

台湾人がアイドルドラマにハマるのはなぜ?
俳優・黃健瑋へのインタビュー

数多くの台湾ドラマが「平凡な女の子と大企業の社長が恋に落ちる」という夢のような筋書きで始まり、主人公たちが躓いた拍子にキスしてしまうことになるのは何故だろうか?演技派俳優の黃健瑋はこう語る。「幻想の世界に入り込むことで、日常生活で直面するありとあらゆる問題から目を逸らすことができる。家庭のことや、人生におけるいろんな問題から。でもそれだけがドラマの持つ唯一の役割だとは思っていない。

黃健瑋(ホアン・ジェンウェイ)はどのような俳優だろうか。『麻酔風暴*1』を観た医師が「黃健瑋はどこの病院の麻酔科医だ?」と思わず尋ね、ともすれば『白米炸彈客*2』を観た人が「爆弾テロの本人じゃないの?」と驚きの声を上げる。どんな役を演じてもその人になり切ってしまう黃健瑋の実力と、演技に対する向き合い方とを示すエピソードだ。

彼が劇中で初めて恋愛をする役を演じたのがドラマ『麻酔風暴』。ヒロインとの間に育まれた、互いを理解し、支え合うような安定感のある愛情はリアルで感動的だ。オムニバスドラマ『滾石愛情故事*3』の中の第14話「你走你的路(君は君の道をゆく)」では二人の妻の間で板挟みになった夫を演じた。そのどっちつかずの姿は台湾人男性の一面を克明に描き出している。

がっしりとした体つきと低音の声が魅力的な黃健瑋は、まさに多くの女子たちが夢見る大人の男。そんな彼には「社長と恋に落ちる」ドラマを演じる素質が十分に備わっているはずだが、どうして演じようとしないのだろう。台湾のドラマについて話し始めると、彼の口からは俳優へのインタビューではあまり耳にしないような「消費主義」というワードが飛び出した。彼にとって、あまりに突飛なストーリーはブランド物のバッグのようなものだという。

  

「幻想づくりには興味がない。」

リッチでハンサムな社長が平凡な平社員を好きになり、微妙な距離感の二人が路上で躓き思いがけず口づけしてしまう…こんなファンタジーめいた物語は、台湾ドラマに決して少なくない。いつになれば我が身にもこんな展開が訪れ、色褪せて退屈な毎日から抜け出せるのだろうと考えるものだが、黃健瑋はこういったストーリーを笑い飛ばす「come on, get real!(おいおい、目を覚ませよ)」

「ドラマに恋愛は欠かせないよ、人生の大事な一部だから。だけど、ああいう現実離れしたドラマのストーリーは、実は恋愛を描いているんじゃなくて、幻想を見せているだけなんだ。ヴィトンのバッグみたいに、欲望を売っているというわけ。」彼は滔々と語る。「人は幻想を求めるものだよね。ここを現実からの脱出口にして、生活での苦しみや向き合いたくないものから逃げ出せる。例えば自分はすごく太っているけど運動したくないとか、きれいじゃないとか、何々が足りないとか…」

ドラマは幻想を売り物にしてはいけないのだろうか。黃健瑋はこう話す。それこそ消費主義というもので、本来必要ないはずのものに対する欲求を生み出させ、買うという行為を通じて人生における選択権を得られたかのような気にさせる。でも実際は何も得られていないし、テレビを切ってみるとまだ元の場所で足踏みしていて、生活は何一つ変わらないまま。

「この世界で起きていることに無関心でいる限り、自分では選択できているつもりでも、できていないことが山ほどある。接種したワクチンがどういうものか分からず、自分が飲む水のこともよく知らずに、選んでいると言えるだろうか。大部分のことを僕らは気にも留めないけど……」

「それだけがドラマの唯一の役割だとは思っていないし、幻想をつくり出すことには興味がないんだ。」そう語る黃健瑋の眉間に皺が寄る。俳優というよりも、常に思考を巡らせる活動家のようだ。

 

『滾石愛情故事』
平凡な人たちが向き合う20通りの愛の難題

黃健瑋が『滾石愛情故事』への出演を引き受けたのは、こういった理由があったからかもしれない。ベテラン監督の馬宜中がプロデュースする本作は「愛情故事(愛の物語)」と銘打ってあるものの、突拍子もないことが起きたりはしない。20曲の名だたるラブソングをテーマにドラマ化し、どこにでもいるような人の、愛情にまつわる様々な苦悩を描いている。誰もがそのうちのどれかに共感し、感動する―たとえハッピーエンドとは限らずとも。

「君は君の道をゆく」の中で黃健瑋が演じる主役・夏柏峰は、浮気をして離婚し、新しく妻を迎えたにもかかわらず、前妻の鄭佩盈(女優・六月)と息子のことから手を引けず、二つの家庭の間を行ったり来たりしては「身動きがとれない」と感じている。役柄について聞くと、彼は大きく目を見開いて言う。「こんなの未熟な男がやることさ。何度結婚しようが変わらない。一人の人間に対して責任を負うことができないんだ。」

話は飛んでドラマの話題から逸れる。「これは華人社会の婚姻における共通の問題だ」この社会で男はどうやって「良き夫」を演じようかと考え、一家の大黒柱として妻子の面倒を見る義務があると認識している。それゆえ、夏柏峰の現在の妻が腹を立てて前妻とは二度と連絡をとるなと要求しても、彼は友人の助けを借りてでも前妻と息子が抱えるトラブルを片付けてやらねばならない。ついには双方からのプレッシャーに耐えかねて苛立ちを露わにする。「お前たちのためにやってるんじゃないか!」

「二人の愛が重荷になったなら 認めないのはなぜ
    そうすればとうとう独りになってしまうから
        ちょうど初めて出会ったころのように……」

             ―陳淑樺、李宗盛「你走你的路」

「君は君の道をゆく」は、愛の物語と言うには酷なストーリーだ。もし大衆の好みに合わせていれば、夏柏峰は間違いなく前妻とヨリを戻し、昔のように再び愛情に火が点いたことだろう。だが現実はおとぎ話のようにはいかない。視聴者の目にはただ、身動きのとれなくなってしまった夏柏峰と、救いの手もなく孤独な鄭佩盈の姿だけが映る。添い遂げると誓った言葉も時の流れには逆らえない。

 

最近の曲が昔のラブソングにかなわないのはなぜ?

『滾石愛情故事』のテーマの一つになった「君は君の道をゆく」は陳淑樺と李宗盛のデュエット曲で、黃健瑋にとっても思い出深い曲だそうだ。この曲はアルバム『夢醒時分(夢から醒める頃)』に収録されたもので、彼は両親がカセットを買って、車で出掛けるときにかけていたのを繰り返し聴いたという。「あのアルバムは耳にタコができるほど聴いたから、どの曲も印象に残っている。陳淑樺は本当に歌がうまいから。」

 

youtu.be

 

『滾石愛情故事』の全20話の中で使用されるラブソングはどれもひと昔前のものばかりだが、今も味わい深く、新鮮な感動に巡り合わせてくれる。「昔のラブソングの方が良い」と言われるのはなぜだろうと聞いてみたところ、黃健瑋は二つの理由を挙げてくれた。一つには、歌が生活と結びついているから。恋をしている時は決まって琴線に触れる一曲があって、その曲や曲の雰囲気が記憶と一つになって、一生特別な一曲になる。二つ目に彼は、懐メロの歌詞の方が良く書けていて心に響くからだ、と残念そうに答えた。以前は想いを伝えるために文字を書く必要があったため、どの文字にも重みがあった。今では指先一つで文字が打てて、気軽に消したり直したりできる。一つ一つの文字に込められる感情もその厚みもあまりに違って、昔の曲の美しさにはかなわないと感じられてしまう。

とは言いつつも、黃健瑋は若い世代の創作の力を信じてもいる。たとえば最近注目の「草東沒有派對(No Party For Cao Dong)」は若者の社会に対する不満を歌にしているが「ああいうのすごくいい」と彼は言う。

 

芝居を観れば誰もが思わず心惹かれる

ドラマ産業に始まり、流行音楽や社会の生きづらさについて語ってくれた黃健瑋。まだまだたくさんの意見を共有したいと考えている。普段は読書を好み、また自身のフェイスブック上で社会問題に関することをシェアして議論するのも好きだというが、思うようにいかないこともあるそうだ。「重要なメッセージをシェアすることがよくあるんだけど、誰もいいね!してくれない。けれど奥さんと娘の写真をアップするといいね!が100も付く…そこは重要じゃないのに!」

正真正銘、演技派俳優の黃健瑋は、多忙な生活の中でも本を読み、考えることを忘れない。そうして得たものをドラマで生かし、リアルな人生模様を生き生きと演じている。彼の芝居を観れば誰もが思わず心惹かれるだろう。

黃健瑋こそ、役者の鑑と言えよう。

 

 

 

【訳者メモ】

このブログを読んで下さっている方の中に、台湾ドラマを観たことのある人はどれくらいいるだろう。数年前には韓流が一世を風靡したけど、その陰で中華圏の映画や音楽、テレビドラマといったいわゆる「華流」と呼ばれるポピュラーカルチャーも日本に入ってきていて、一部の根強いファンを獲得しつつぼちぼち浸透しているという感じがする。日本の漫画『花より男子』や『イタズラなkiss』なんかが台湾でドラマ化されて、それが逆輸入されたりも。

記事のタイトルにある台湾の「アイドルドラマ」というのは、主に若手アイドルグループのメンバーだったり、話題のイケメン俳優なんかを主役に据えて撮られた“アイドルありき”のドラマ(だと私は解釈してます)。実際、この記事にあるような女子が憧れるシンデレラストーリーものが多く、胸キュン狙いのシナリオがふんだんに詰め込まれていて、私なんかは観てたら鳥肌が……ドキドキするけどすぐにお腹いっぱいになっちゃう。

台湾のドラマってそういうのばかり…という私の固定観念が打ち破られたのは、2011年に放送された『我可能不會愛你』(邦題:イタズラな恋愛白書)を観たときだった。胸キュンの仕掛けはもちろんあるんだけども、幼馴染という関係からすれ違い、互いを想う気持ちに徐々に気づいていく二人の、曖昧な大人の恋が巧みに描かれていて、台湾でも大ヒットしたドラマ。これの脚本を書いたのが徐譽庭という人で、同じく『妹妹』(邦題:僕らのメヌエット)というドラマを書いたのもこの人。で、そのあまりに“現実的すぎる”どんでん返しの結末にネット上で議論が巻き起こったほど。

台湾ドラマってアイドルドラマばかりじゃない(なくなった?)んだなーと最近は思う。でも翻訳されて日本に入ってくるのは、ほとんどが需要のありそうな有名アイドルを起用したドラマだという印象がある。残念な気もするけど、アメリカのドラマほどメジャーなわけではないから仕方ないか…でもこれから増えてほしいな!そして字幕翻訳の仕事できるといいなあとこっそり野望を抱いている。

オムニバスドラマ『滾石愛情故事』はストーリーだけでなく、台湾で愛されてきた流行歌を知ることもできてよかった。あと、いろんな俳優が登場するから退屈しないし演技を見比べたりなんかして好みの俳優さんを見つけられる(笑)。映画『白米炸彈客』のほうは、黃健瑋のシリアスな演技と、生まれ育った土地を愛する思いが込められた台詞に胸を打たれた。次に台湾へ行くときにDVD探すかな。(『麻醉風暴』はまだ観てないのでこれから!)

 

追記:台湾では『麻醉風暴2』が放送されるとのこと!

*1:2015年放送、公共テレビ製作。英題は“Wake Up”。善良な麻酔科医が医療事故に巻き込まれ、病院という組織、さらには過去に負った心の傷と対峙していく医療サスペンス×人間ドラマな物語。

*2:2014年公開(日本未公開)、監督:卓立、脚本:鴻鴻、金篤蘭。直訳すれば白米爆弾犯=ライス・ボンバー。台湾で実際に起きた事件を題材にした作品。白米を仕込んだ爆弾を街に仕掛け、WTO加盟以降、農業を軽視する政府に抗議しようとした楊儒門という人物の物語を描く。ジャーナリストの野嶋剛さんがご自身のサイトで紹介されているのが分かりやすいので参考に。

*3:2016年4月から放送されているオムニバス形式のドラマ。邦訳すれば『ロックレコードと恋人たち』といったところだろうか。「ロックレコード(滾石唱片)」は台湾の大手レコード会社のことで、そこに所縁のある20の楽曲をモチーフに、20通りの恋愛ストーリーが描かれる。現在第16話まで放送済み。第1話では日本でも比較的名の知れているレイニー・ヤン(楊丞琳)が出演していたりする。

パン職人・呉宝春が母から教わったこと

※本記事は、掲載元《民報》より翻訳及び転載の許可を得た上で投稿しています。
 原文:媽媽教吳寶春的事:做人不要怨天尤人! | 民報 Taiwan People News(文:楊惠君、2016.5.6)

 

パン職人・呉宝春が母から教わったこと 

どんな成功者にも、陰で支えてくれる力強い存在がいる。そこには女性の、とりわけ母の姿があることが大半だ。パン職人の呉宝春(ウー・バオチュン)にとって、人生に立ち向かい、努力する先にある願いはただ一つ「母の誇りになる」ことだ。

呉宝春の店はパン屋なのに、どうしてパイナップルケーキを売っているのかと不思議に思う人も多いだろう。その商品名も「無嫌パイナップルケーキ」という、パンとは何の関係もなさそうな名前だ。「まさか、しょっぱいパイナップルケーキってことですか?(中国語で「嫌」という漢字と「しょっぱい」を意味する「鹹」という漢字が同じ発音であるため)」と知らずにたずねる人もいる。実はその由来は、生活が非常に苦しかった時期、呉宝春の心に沁み込んだかけがえのない“やさしさ”にある。そこには、彼の母親であり、パイナップル農婦として苦労を重ね働きとおした陳無嫌さんの “前向きに人生を受け入れる”という生き方が込められている。

 

総統府前をうろつくサンダル姿の浮浪者が
総統府へ招かれるまで

先日、呉宝春と弟子の謝忠祐が民報文化講堂で対談を行った際、呉はこう語った。「母さんは人生について大袈裟な道理を説くようなことはありませんでしたが、たった一つだけ教えてくれたことがあります。それは『不満を他人のせいにしちゃいけない』ということでした。この言葉をずっと心に刻んで生きてきて、どんなに苦しくて、どんなに落ち込んでいる時でも、屁理屈をこねたり、誰かのせいにするようなことはしませんでした。一歩一歩着実に進んでいけばいいんだと。若い同僚たちとこういう話をすることもあります。」

17歳で屏東から台北に出てパン職人に弟子入りした頃は、体重がまだ50キロもなかった。小柄な呉宝春には毎日途方もない数の仕事があり、夜は工場内の狭い屋根裏部屋に寝泊まりし、休みは一か月に二日しかなかった。財布の中身は空っぽで屏東へ帰る時間もなく、気晴らしをするだけのお金もなかった。とはいえ、悶々とした工場の中であぶらぎった臭いをかいでいるのも嫌だった。

安いサンダルを履いて、中正紀念堂広場(現在の「自由広場」)の前の塀の辺りまであてもなく歩き、空や、人や、鳥を眺める。これが呉宝春少年にとって唯一の楽しみだった。ある時はぶらぶらするうちに総統府の前までたどりつき、博愛特区のいかめしい警備員に目をつけられ、“だらしない身なり”の少年は威嚇され追い払われた。

「パンを作って賞をもらい、総統の客人として総統府の中に入る日がくるとは、思ってもいませんでした」2008年にはベーカリー・ワールドカップ団体の部で二位を獲得し、馬英九総統に謁見した。総統府に足を踏み入れたその時のことを、呉宝春は「あの頃サンダルを履いて、外をうろついていた17歳の自分の姿がすぐさま脳裏に浮かびました」と語る。

  

受賞パンを生み出した、
故郷の母との思い出の香り

故郷の家を出てから奮闘すること早二十年、呉宝春が歯を食いしばってでも前に進むことができたのは、母がくれた力に報いたいという思いがあったからこそだ。

当時、呉宝春が連休をとって里帰りすると、貧しいながらも母はおいしいものを特別に準備して彼の帰りを待っていた。ある時、事前に連絡せず家に帰ると、食卓の上にはただ「パイナップルの塩漬け(醃鳳梨)」があるだけだった。そこで初めて、母が一人でどんな生活をしていたかということ、その苦労を今まで何一つ漏らさず、子どもたちを笑顔で迎えていたのだということを知った。

ベーカリー・ワールドカップ世界大会(2008年)への出場資格を懸けた2006年のアジア大会への出場を前に、母がこの世を去った。呉宝春はスランプに陥り、コンクールの課題「自国の特色を生かしたパン」についてインスピレーションが湧かず煮詰まっていた。ある日、大武山のふもとにある地元へ帰り、故郷の地を歩いていたところ、ふいに馴染み深い香りがしたのだった。「あれは毎年冬至になると母さんが食べさせてくれたリュウガンのおかゆ(桂圓糯米粥:乾燥させたリュウガンの実を使ったおかゆ)の香りでした。急にアッと閃いて、母さんのためにリュウガンのパンを作ろう!と思ったのです。」

これこそ、彼が初めて世界で名を上げ、のちにワールドカップで準優勝することになる「リュウガンと赤ワインのパン(酒釀桂圓麵包)」の原点である。天国の母が導いてくれたものだと、呉宝春は信じている。「アジアカップ当日は、ちょうど母の日だったんですよ!」

 

母の名で基金会を設立、
パイナップルケーキで社会貢献を

しかし、彼の名が世間に知れ渡るその時を、母と分かち合うことはできなかった。2010年、いよいよ個人の部で優勝を果たすと、呉宝春ベーカリーを開業し、翌年には母の名前をとった「陳無嫌基金会」を設立。店で売られている「陳無嫌パイナップルケーキ」は、パイナップル農家として働いた母に捧げられたものであると同時に、この商品の収益はすべて基金会に寄付され、地方の子どもたちの学習や就業を援助するために用いられる。

民報文化講堂で開催されたイベントには、パン作りの仕事に強い関心を持つ子どもたちが各地からやってきて呉宝春と謝忠祐の講座を聴講した。子どもを連れてやってきた父や母の姿も少なくなかった。

そこで、我が子を思う一人の母親が質問を投げかけた。「うちの子はパン作りが大好きなんですが、今後、台湾の市場は飽和してしまうんじゃないでしょうか?」

呉宝春はこう答えた。「市場が飽和するかどうか?もう飽和状態ですよ。どんな分野でも、自分の業界は飽和状態にあると考えるでしょう。ただし、だからといって、その中で自分の市場を作り出せないわけじゃないでしょう?お父さん、お母さんたちがお子さんの手を放してあげれば、彼らは努力して、最終的に壁にぶつかって、躓いて倒れたとしても、起き上がって、また羽ばたいていきます。やる前から引き止めていては、一生飛ぶことはできませんよ。」

母の力とは、繋ぎとめるのではなく、手を放してあげること。自ら手本となり、見守ってあげること。幾度となく壁にぶつかり、躓くことを経験して今のように青空を高く飛ぶ呉宝春が、母の姿から導き出した道理がここにある。

 

呉宝春ベーカリー(吳寶春麥方店)公式サイト
http://www.wupaochun.com/

 

 

【訳者メモ】

パンが好きで実はパン工場で働いていたこともあるのですが、受賞したリュウガンのパンをぜひとも食べてみたい!と思い立ち、台北のお店を訪れたのは2014年春のこと。一つ分が人の顔よりも大きくて、とんでもじゃないけど一人じゃ食べきれない…と諦めてタロイモのあんパンを買って帰った覚えがあります。(もちろん美味でした!)

台湾へ旅行に行くと、必ずと言っていいほどお土産に買って帰るのがパイナップルケーキ。今ではブルーベリーやクランベリーを入れたもの、生地に鉄観音茶を練り込んだものなど、種類がありすぎて選ぶのにも一苦労だ。呉宝春のパイナップルケーキも頂いたことがあるが、丸くてコロンとした形に、甘すぎなくてポイポイ食べれちゃう癖のないお味でございました。

昨年、台湾の友人が日本に遊びにくる時に「お土産なにがいい?」と聞かれたので、思い切ってリュウガンのパンをリクエスト。あんなでかいパンをわざわざ台北から持ってこさせたことを反省しつつ、惜しげもなくかぶりついた。乾燥されたリュウガンがふんだんに練り込まれていて、口いっぱいに香りが広がる広がる。食感は大きいレーズンという感じ。香りが独特なので、苦手な人もいるかも。

ちなみにこちらのサイトで記事になっていた。

rocketnews24.com

日本へも配送してくれるみたい。