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心の扉を開けば―作家・王昶雄の生涯

掲載元《民報 Taiwan People News
原文:阮若打開心內的門窗---王昶雄(文:林衡哲、2016.7.1)
※以下、文中の注釈は参考のために訳者が書き加えたもの。

 

心の扉を開けば―作家・王昶雄の生涯

※これは、台湾の作家、王昶雄(おう・ちょうゆう/ワン・チャンション)の生涯について彼の知人である林衡哲さんが書いた記事。日本による植民統治下に生まれ、日本語教育を受けて育った王昶雄は、日本語での文学創作において優れた才能を開花させる。1945年以降、台湾が中華民国の統治下に置かれてからは中国語が公用語とされ、一から言語を学ぶ必要に迫られた台湾人作家にとっては言語的な制約があった。また、1947年の二・二八事件という市民に対する弾圧事件をはじめとして、その後の白色テロによる社会的な閉塞感から、創作を諦めてしまう人たちもいた。そうした中で王は母語である台湾語の歌詞を書くことにより創作の活路を見出し、後には中国語でも歌詞やエッセイを書いている。

代表曲『心の扉を開けば』は、ふるさとや青春を懐かしむ思いの込められた優しいメロディーの曲。作詞者の背景について知ってから聴くと、また違った味わいがあるかもしれない。ということで、以下、翻訳内容。

 

医学と文学の知識を兼ね備えた先駆者

王昶雄の本名は王栄生。1915年に淡水の鎮九坎街(現在の重建街)に生まれた。父は貿易商を営み、母を連れて華南一帯を駆け回っていたため、王は淡水の実家にとどまり母方の祖母の手で育てられた。彼が文学に熱中した理由は、その孤独な少年時代にあるのだろう。彼はよく淡水河のほとりで空想に耽り、夢や記憶について思いをめぐらせていたという。幼くして淡水公学校に通い始め、後輩に李登輝元総統がいる。13歳になると単身で日本に渡り留学に臨んだ。渡日後、まず郁文館中学に入学。達弁で度胸のある彼は全校弁論大会で二度も優勝した。「台湾出身の子ども」が栄冠を勝ち取ったことは、当時の大ニュースだった。

本場江戸訛りの日本語を話せるだけでなく、日本語での作文においても日本人を凌ぐほどの才能を持っていた王は、中学卒業後に志望していた日本大学文学部に難なく合格。二年目には父親の意を受けて日大の歯学部を受験することになる。1942年に卒業し、帰台。20歳の時、日本の雑誌「青鳥」の同人に加わり、同誌に彼の青春詩「私の歌」が掲載された。二年後、季刊誌「文芸草紙」に参加。23歳で詩「陋巷札記」が台湾の「台湾新民報」で発表された。翌年、中編小説としては処女作となる「淡水河の漣」が「台湾新民報」で連載され、台湾の文壇における優秀な新人として期待を集めた。

27歳で台湾に戻ると、故郷の淡水に歯科診療所を開く一方、張文環、陳逸松(ちん・いつそん)らを筆頭とする雑誌「台湾文学」の同人に仲間入りする。西川満の「文芸台湾」と対立していた雑誌である。28歳になる年(1943年)に、彼の人生にとって大事な二つの出来事があった。一つは、淡水の名だたる画家・林玉珠との結婚。彼女は台湾の医療に貢献した著名なマカイ博士(馬偕)の外孫にあたる画家・陳敬輝の一番弟子だった。もう一つは、不朽の名作である中編小説「奔流」を書きあげたこと。本作は「台湾文学」第三巻第三期に発表され、のちに大木書房から出版された「台湾小説集」に収録される。1942年に台湾に戻ってから1947年に二・二八事件が起きるまでの間、彼の日本語による創作は黄金期を迎え、台湾の各新聞、雑誌のあちこちで彼の小説、詩、散文、評論等を読むことができた。1946年には医師としての仕事のほかに、淡水純徳女子中学で歴史の教師を務めた。

王井泉が主宰するレストラン兼文芸サロン「山水亭*1」で過ごした日々は、彼の生涯の中で最も幸せな時間であったことだろう。その場所には王井泉、張文環、呉新栄、陳逸松、陳夏雨、呂赫若(りょ・かくじゃく)、呂泉生といった日本統治時代の才能ある文人たちが集まり、詩や酒を嗜んでは自由闊達に議論し、近代台湾初期のささやかな文芸復興の潮流を導いた。この時期、王は「淡水河の漣」、「奔流」、「梨園の歌」、「鏡」という四つの中編小説を世に出した。いずれも苦心して書きあげられた作品だ。それぞれ題材は異なるが、そこには彼の思想の流れがはっきりと示されている。短編小説では「遠島」、「小丑のため息」、「阿緞の嫁入」、「濱千鳥」、「緋櫻の咲頃」など12篇の力作がある。現代詩は18篇で、抒情的な詩作を得意とし、非常に整った構造で、韻律に富んでいる。文芸評論は25篇で、どれも独立した思考と、鋭い視点に裏打ちされた文章だ。

しかし、二・二八事件*2をきっかけとして彼の日本語創作における黄金期は終わりを告げる。「山水亭」の閉店に胸を痛めるも、旧知の文学仲間が集う和気藹々とした時間はもう戻らなかった。台湾の知識人たちは憂鬱な心情を抱えたまま、二十年近くも筆を手放すことを余儀なくされる。1950年、王は淡水から台北の中山北路へと引っ越し、その後は歯科医の仕事に専念し続けた。

 

代表作「奔流」への評価

「奔流」は王が直接的な手法で反日意識、感情を表現した作品だ*3。親友の陳逸松はかつて「大稻埕20年小史」の中でこのように書いている。

「台湾人作家の作品は数多く読んできたが、王昶雄の「奔流」、呉新栄の「亡妻記」、張文環の諸作は特に忘れがたい。」

「演技派俳優の第一人者」と言われる宋非我も繰り返し読んだといい、名作と名指す。1943年に雑誌「台湾文学」が主催した台湾文学賞を呂赫若の「財子壽」が受賞した際には、坂口䙥子の「灯」と共に王昶雄の「奔流」が奨励賞を受賞した。

「奔流」を発表するために、「台湾文学」の編集長であった張文環は保安課を何度も往来する羽目になったという。また、王の妻からすれば恩師である陳敬輝が、小説の中で悪く描かれていたことから彼女に反対され、さらには読者の間で皇民化小説であるとの誤解を招いた。実のところは、張文環が述べているように「王昶雄の奔流は、皇民化の時代にあって唯一、被植民者の立場を描いた作品であり、皇民化運動が台湾人の精神に与えた屈辱と迫害の苦しみとを暴き出した」作品である。

「奔流」の中で、王は林柏年(りん・はくねん)のように純粋な抗日青年を比喩的に登場させている。当時としては果敢な挑戦であっただろう。文芸批評家の大御所・葉石濤も、「王昶雄が表現したのは、台湾民衆の皇民化に対する抵抗の意志であった」と述べている。

 

60年代、優れた中国語能力で再び表舞台へ

1957年、「山水亭」時代の旧友・呂泉生は辜偉甫(こ・いふ)と共に「営星児童合唱団」を創設。台湾の歌が“植民地化*4”に面する頃、呂は意気込んで王に誘いを持ちかけ、台湾に根差した楽曲のための作詞を頼んだ。王はかねてからスコットランド民謡の「ノスタルジー」や日本の名詩人・西條八十を敬愛していたことから、「大衆歌謡の芸術化、芸術音楽の大衆化」を軸に共同創作を始めた。初めて完成された曲が「阮若打開心内的門窗(心の扉を開けば)」という台湾語の歌曲であったのは、思いがけないことであった。

「この曲のインスピレーションは偶然の賜物だった。故郷を離れて暮らす人は誰でも、ふるさとのあれこれや、田園風景といったものに思いを馳せるもの。異郷でのやるせない日々にとってそれは心の拠り所だ。私にも日本で故郷を恋しく思った経験がある。だからこそ自然とこの曲を書くことができた。」

心の扉を開けば 故郷の田園が見える

千里も続く道なれど 帰郷の願いは絶えることない

故郷よ どこにある? 永遠に心の中にあれ

心の扉を開けば 故郷の田園が見える

 

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1957年、台湾省文化協会男声合唱団が台北の中山堂でこの曲を演奏。その後、瞬く間にキャンパスや巷で有名になり、呂泉生にとってはその生涯で二曲ある代表作のうちの一つとなった(もう一曲は「杯底不可飼金漁」)。のちに20曲余りを共同で制作し、どれも広く親しまれた。

音楽は心の良薬といえるのかもしれない。王は徐々に二・二八事件の暗い影から抜け出し、1965年には再び文壇に返り咲いた。当時になってようやく、彼が日本語同様に中国語(北京語)で優れた文章を書くことができるということが世間に知られた。後輩にあたる黄武忠はこう述べていた。「王氏の文章は流暢で華やか。言葉遣いに奥行きがあって、非常に感服させられる。幼いころから中国語の教育を受けてきた私は、自身の力不足を嘆かずにはおれない。」王が並々ならぬ努力の末に中国語での創作力を身に付けたことは明らかだ。残念なことに彼が小説を書くことはもうなかった。しかし、パワフルな創作力で文学や芸術、人生について次々とエッセイを執筆し、素直な思いを表現した。文章にはユーモアがあり、読み応えがある。彼の残した作品集には「驛站風情(宿場の風情)」、「阮若打開心内的門窗(心の窓を開けば※楽曲と同名)」などがある。

 

台湾文芸界で青々とそびえ続ける木

王はかつてこう話していた。「誰にも三種類の年齢がある。一つは歳月としての年齢、二つは生物学的な年齢、三つは心の年齢。生物学的な年齢は体の状態となって表れ、心の年齢は精神、考え方に表れてくる」。そんな彼は日ごろから水泳と登山を嗜み、歳をとってからもよく泳ぎに行き、また、軽々とした足取りで山に登った。1988年、筆者と友人が誘われて淡水大学で一緒に山登りをした時のこと、すでに70歳を過ぎていたが白髪一つなく、胸を張って背筋をぴんと伸ばし、元気溌剌とした様子で、会話はエネルギーに満ちていた。彼の辞書には「老」という字がないのだ。彼はよく自分のことを「少年のまま大人になった」という。亡くなる半年前に胃がんで倒れるまでは、心の年齢でみる彼は実に、台湾文芸界で青々とそびえ立つ木のようであった。筆者が出会ったベテラン作家の中で、彼は誰よりも生活の中にある芸術を理解している人物だった。

 

晩年は台湾文芸の復興に尽力

王昶雄は度量の大きい人だった。日本統治時代の「山水亭」の店主、王井泉からバトンを受け継ぎ、「益壮会」を主宰してベテランの作家と文芸家を結び付け、総幹事を17年間務めた。生前、最後に招いた講演者が台湾独立運動家の彭明敏(ほう・めいびん)だったことからすると、王もまた文化的な台湾独立を夢見ていたのかもしれない。このほか、「台湾筆会」の活動に積極的に参加し、「北台湾文学」文学集の編集主任を担当し、それは全国文化局編纂の作品の中でも最も優れた文学叢書となった。このように、晩年は台湾文化に関わる活動に力を入れていた。

2000年1月1日、王昶雄はこの世を去る。それは一つの時代の終わりを象徴していた。2000年1月25日、陳水扁元総統は褒揚令の中でこう述べた。「(王は)台湾文芸の復興に生涯にわたり尽力し、我が国の伝統文化を発揚した」。2000年11月4日、淡水の真理大学にて、第四回目の台湾文学家牛津奨が彼に贈られた(亡くなってから受賞したのは王昶雄だけ)。彼の生涯における文学での成功と貢献を称えるとともに、王昶雄文学会が開催され、王が台湾に残した消え去ることのない文学という遺産に皆が思いを馳せた。彼は名誉と人徳を成し、優れた言葉を残して、愛情豊かな人生の幕を閉じたのだった。

 

 

 

【訳者メモ】

私の場合、有名な「奔流」という小説をきっかけにこの作家について知ったのだが、後に鳳飛飛という台湾の歌手が「心の扉を開けば」という楽曲を歌謡曲っぽくアレンジして歌っていたのを聴いて、改めて作詞家としての王昶雄に出会った。

 

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最近でも若いミュージシャンが演奏していたりするので(台湾のバンド、宇宙人のギタリストがライブで歌ってた)、台湾の人にとっては懐メロ的な、親しみのある歌なんだろうなと。歌詞を書いた王さんの人生を知ったうえでこの曲を聴いてみると、故郷や昔の記憶に対する愛着、何かしらの切実な思いがより強く感じられるような気がする。

「心の扉を開けば」の歌詞は四番まであって、それぞれ懐かしく思い起こすものとして「春の光」、「愛しい人」、「故郷の田園」、「青春時代の甘い夢」という言葉が歌われる。歌詞ではどれも今はもうどこにあるのか分からないもの、失われたものであるけれど、ただ心がそれを覚えていればいいのだ、という風に表現されている。

政権が移り変わる中で、自分のアイデンティティがどこにあるのか、故郷とは、祖国とは何なのか、といった問いに常に向き合わざるを得なかっただろうし、それに対してなんとなく折り合いをつけた答えとして、この曲ができあがったかのようにも思えてくる。ってのは考えすぎかなどうかな。

*1:清朝末期、日本統治時代の食卓へタイムスリップ!」という翻訳記事の中でも山水亭が登場する。
「山水亭には広々とした宴会用の空間や、芸者による生演奏があるわけではなかったが、どのテーブルにも花が活けてあり、食事であれ喫茶であれ、いつでも蓄音機から流れてくる音楽を楽しむことができた。そこは戦火にさらされる都会の中のオアシスであり、近代台湾の多くの文芸人にとっては、ホームであった。」

*2:第二次世界大戦後、中華民国国民党に実質的に統治されることになった台湾では、中国大陸出身の人々(外省人)による支配下での政治腐敗、インフレ等に対して市民が強い不満を抱いていた。そんな中、1947年2月27日、役人が台湾出身(本省人)の女性に暴行を加えた事件を発端として、翌28日より市民による抗議運動が台湾全土に広がる。これに対し国民党政府は無差別な武力鎮圧を決行し、多くの犠牲者を出した。これら一連の出来事が二・二八事件と呼ばれる。事件後も知識人を中心として弾圧が行われた(白色テロ)ため、事件について語ることは長らくタブー視され、続く戒厳令下で言論統制はますます厳しくなった。台湾史を考えるうえで欠くことのできない出来事。

*3:「奔流」のあらすじについて。主な登場人物は、内地(日本)から本島(台湾)に帰ったばかりの医師である「私」、流暢な日本語を話す中学教師「伊東」、少年「林柏年」の三人である。物語は「私」の視点で語られる。「私」は当初、日本語の分からない母親の前でさえ頑なに日本語しか使おうとしない伊東の姿に感心する。だが柏年は実の母に冷徹な態度をとる伊東に対して反抗的であり、母を卑下してまで日本人になりきることに執着する伊東に対して、「私」も徐々に疑念を抱き始める。一方で柏年自身も台湾人、日本人というアイデンティティの問題に直面し、葛藤する。完全に「台湾人」としての要素を切り捨て、「日本人」として生きようとする伊東に対し、「台湾人」であることの誇りをもって、かつ「日本人」としても内地の日本人と同等に渡り合おうとする柏年。二人が対照的に描かれ、若い世代である柏年が「台湾人」としての尊厳を守りながら帝国の理想とする「日本人」へと成長していくことに希望を抱かせる作品、つまり皇民化小説として読めなくもない。ただし、物語の最後には柏年の「立派な日本人であればある程、立派な台湾人であらねばならない」という志高い手紙を読んだのち、「クソ、クソ」という悲痛な叫び声をあげて坂を駆け下りていく「私」の姿が描かれている。

*4:当時、日本の歌謡曲や洋楽といった海外の音楽が大量に流れ込み、歌詞だけを台湾語や北京語に変えたカバー曲が流行していた。王は、単なるカバーだけでなく、日本の歌謡曲風に曲調をまねて作曲することについても批判的で、後にこのような当時の状況を「音楽による植民地化の時代」と振り返っている。参考:許俊雅編(2002)『王昶雄全集四』、台北県政府文化局出版、p264。