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清朝末期、日本統治時代の食卓へタイムスリップ!

掲載元:研之有物 - 串聯您與中央研究院的橋梁 │ 數理、生命、人文科學知識分享平台
原文:穿越!回到清末、日治時期吃飯局 - 研之有物│中央研究院台灣飲食史研究(編集:林婷嫻)

 

清朝末期、日本統治時代の食卓へタイムスリップ!

なぜ「食文化史研究」が重要か?

食事とは、単に食べ物を口へ運ぶ過程ではない。昔の人がどのように食事していたのかを探究することで、彼らの生活について理解することもできる。清朝末期、日本統治時代の台湾人にとって、「酒楼」での宴会はビジネスに関係していたし、家で行う「すき焼きの会」は、植民統治下での気晴らしの機会だった。中央研究院台湾史研究所の曾品滄(ツォン・ピンツァン)副研究員による食文化史研究を参考に、歴史をさかのぼり、古人の食卓に接近してみよう。

 

清朝末期にさかのぼる
歌もあり劇もあり、食事の時はスマホを見ない

2016年の台湾では、親しい友人たちと高級レストランで食事をし、生演奏を楽しむことができる。あるいは、手の込んだ料理をテイクアウトすることもできる。そうすればキッチンで汗だくになることもなく、料理が下手なことに悩む必要もない。こういったグルメの嗜みは今の時代だけの特権ではない。清朝末期の台湾では、すでに「酒楼」というものが登場し、当時の紳士階級はここで宴会を開いたり、出前を頼んだりすることができた。

酒楼ができる以前、生活様式にうるさい紳士階級の人たちは自宅の「花庁」(いわゆる客間)で客人をもてなした。例えば、台北市板橋区にある林家の白花庁や、霧峰林家の宮保第にある大花庁がある。現代人は食事の時も俯いてスマートフォンを触り、会話も少ないが、清朝末期の紳士は食事の時間を無駄にしない。ゲストたちは花庁で絶品料理を味わいつつ、歌を聴き、劇を見る。視覚と聴覚、そして味覚と嗅覚とが織り成す饗宴を堪能するのだ。

清朝末期に開港してから、台湾を訪れる文人、豪商、官人の数は増え、接待へのニーズも高まった。消費力が大きく、センスと舌の肥えた客層は、食事のための高級かつオープンな消費空間を求めるようになり、それが「酒楼」の登場するきっかけになったと考えられる。

社交的な場が苦手で無口な人でも、清朝末期の酒楼なら馴染めないことを不安がる必要はない。

なぜなら、当時の酒楼では「芸者(芸旦)」の歌を聴いて、「歌劇団(梨園)」の芝居を見ることができたからだ。芸者による演奏は、今の台湾でいえば忘年会に歌手を呼んで歌ってもらうようなことだ。芸者は曲師(楽器演奏者)の演奏に合わせ、哀愁漂うゆったりとした南管や、賑やかな北管、乱弾(地方劇の一種)の曲を歌った。現代では歌手の「蔡依林(ツァイ・イーリン)」が引っ張りだこだが、清朝末期の台北では「阿波」が、その素晴らしい歌唱力により人気を博した。酒楼の中には、中国大陸の福州からわざわざ歌劇団を呼び寄せるところもあった。宴会の間に押し黙っている必要はなく、お腹を満たした後はさらに音楽によって文化的な雰囲気が高まった。

当時の酒楼で食事するというのは、一体どんな心地だったのだろう?以下の詩から想像していただきたい。

「正是酒樓風景好,囊中只少買山錢。」

  酒楼は実にいいところだ。
 (山を買って)隠居するためのお金など懐には残らない。

   ──〈郡寓雜作〉, 咸豐年間噶瑪蘭貢生李逢時(1829–1876)

 

日本統治時代にさかのぼる
料理は多様化、酒楼は健在、美女に付き添われながら

1895年から1911年の間に政権は日本に変わり、それに伴い台湾では酒楼が一層栄えて、日本人の開く日本料亭と西洋レストランが登場した。

現代人が日本統治時代に戻れば、本格的な日本式、西洋式料理に気分も高まることだろう。だがこの頃の日本料亭と西洋レストランの客は大部分が日本人だった。日本料理は生もので冷たいものが多く、二時間も正座したまま食事をすると足が痺れて立ち上がれなくなる。また、西洋料理はテーブルマナーが多い上に高価だ。そのため、いずれも台湾人の口と習慣には合わなかった。

清朝では、官職に就いて出世するには科挙を受験するという道筋があった。しかし、日本統治時代に科挙制度はなくなり、重用されたければ日本人との交流、接待、人脈の開拓に力を入れ、自身の社会的・経済的な地位と実力とを知らしめる必要があった。当時、多くの台湾の紳士たちは、私的な領域である「花庁」から公共空間としての「酒楼」へと、宴会の場を徐々に移すようになった。現代の言葉で考えるなら、「花庁」はホームパーティーの会場、「酒楼」は外でパーティーを開く際のレストラン会場だ。

したがって、日本料亭と西洋レストランが登場してからも、台湾の紳士と日本人との主要な集いの場所は主に酒楼だった。たとえば、台北の平楽遊、東薈芳、台南の醉仙楼、宝美楼などがある。

この頃、酒楼では手の込んだごちそうがたくさん提供されたが、ほとんどは福州出身の料理人の手によるもの。福州からきた料理人たちは、もともと清朝の上層社会で専任の料理人をしていて、清朝の官吏たちに個人的に仕えていた。それが政権の終焉、あるいは、技術の修得を機に、酒楼にやってきて存分に腕をふるった。しかし、客人を引き付けたのはおいしい料理だけではない。今も昔も、「娯楽」はさらなる重要素だ。

もし運よくこの当時の宴会に参加することができたなら、芸者や歌劇団の演目を鑑賞できるだけでなく、おそらく「食」と「性」の楽しみを同時に得ることもできるだろう。日本統治時代、日本人により「酌婦」による接待方法が持ち込まれ、すなわち「お酌をする女性」が現れた。主に付き添ってお酒を飲み、おしゃべりをするのだが、お酒が入って出来上がると性的なサービスに至ることもあった。だが袖を脱ぐにはまだ早い。林献堂らの日記には、当時は性病が蔓延していたと書かれているから、おとなしく食事するにとどめておくのが得策と言える。

「演梨園三枱,内地女優一座,藝妓、酌婦侑酒,直燕飲至七時餘方散」

  歌劇団が三つと、内地の女優が一人。
  芸者、酌婦が酒を勧める。七時過ぎに解散するまで飲み明かした。

   ──〈水竹居主人日記〉 ( 1914-02-21 )

 

日本統治時代にさかのぼる
酒楼が嫌なら?家で気ままにすき焼きを囲もう

現在の大学生や会社員は、凍てつく冬の寒さの中、火鍋を囲んで食べながらおしゃべりをする。体は温まり、仲も深まる。こういった親睦のための食事の場と同様の活動が、日本統治時代にもあった。当時の台湾の若者は、酒楼のこだわり抜かれた料理には手が届かないにせよ、集まって食事をする機会が欲しかった。そこで、家で友人とアツアツの「すき焼き」をすることにしたのだ。これは主に、日本の教育を受けたことがあるか、または日本人との交流が深かった知識人が食べていた。

「すき焼き」は日本式の鍋料理の一種で、牛肉、豆腐、野菜が主な材料。台湾人は牛肉の代わりに豚肉、鶏肉を使っていた。すき焼きは一つの鍋で煮込むことから、自由平等の精神を反映していると思われ、皆が一緒に鍋をつついて、自分で取って食べる。誰が誰の世話をするといったルールはないし、気兼ねすることもなく、仲間同士の距離を縮めるきっかけになる。その上、食材の準備は簡単で値段も安いため、当時は友人の集まりに欠かせないものとなった。林献堂は普段からいくつも接待の会食に参加していたが、それでも定期的に親しい友人と代わる代わるすき焼きの会を開いた。酒楼での宴会に比べれば、すき焼きの会の方がよっぽど気楽で酒も進むし、気ままに楽しむことができるからだろう。

 

日本統治時代、中後期にさかのぼる
食事しながら救国談義、台湾の郷土料理が盛んに

ひまわり学生運動、同性愛者のデモなど、現代人が政府に対して何らかの思想や立場を示したければ、街に出て堂々とアピールすることができる。しかし、日本統治時代の台湾の知識人たちは、酒楼でひっそりと集まるしかなかった。 

公会堂といった公共の場での演説に比べて、酒楼の宴席での“開会のあいさつ”は、日本の警察による監視の目に留まることが少なかった。政府は台湾人が集まって食事をしているだけだと思い込んでいたからだ。そのため、当時の台湾知識人、たとえば林献堂、蒋渭水らを筆頭とする台湾文化協会は、酒楼の宴席で反日の思潮を広めようとした。そして蒋はついに「春風得意楼」を買い上げ、台湾人のための社交的な公共空間とする。

1937年、日中戦争の勃発後、戦争期の食糧不足のため、台湾では「郷土料理」というものが改めて注目された。それまで、酒楼でのいわゆる「台湾料理」というのは実は「大陸料理」で、ほとんどが福州、広東または四川の料理人が作る手間のかかる料理だった。たとえば、紅炖魚翅(フカヒレの醤油煮込み)、十錦火鍋(五目鍋)、脆皮雞(鶏のパリパリ姿揚げ)、五柳居(魚の醤油煮込み)など。一般的に台湾人が家で食べるものは簡単な家庭料理で、たとえば空心菜や番薯籤(細切りのイモを干したもの)だ。戦争の影響で外からの食糧供給が滞ると、酒楼の多くは台湾本土の食材を使った家庭料理を宴会にも出すようになった。たとえば菜脯蛋(切り干し大根のオムレツ)、虱目魚(サバヒー)など。以降、宴席には「台湾のふるさとの味」が登場する。

台湾独特の料理を味わい、なおかつ当時の知識人に会いたいというのなら、1939年に王井泉が開いた「山水亭*1」に行くことをおすすめする。大稻埕に位置し、「台湾文化サロン」の名でも評される。

1941年、台湾全土で物資統制の政策が実施され、すべての食糧は配給を通さねばならなくなる。だが山水亭は闇市や北投にある農家から地元の食材を手に入れるルートを持ち、バラエティに富んだ新鮮な「純台湾料理」を頑なに提供し続けた。たとえば刈包(角煮サンド)、雞腳凍(鶏の足の甘辛煮)、炒酸菜蝦仁(高菜とエビの炒め物)、煎菜脯蛋(切り干し大根のオムレツ)、燖醬冬瓜肉(トウガンと肉の料理※訳者もよく分からず)など。テーブルまで産地直送だ。こうして、台湾人の飲食にまつわる生活の伝統を保存して広め、台湾人の生活と感情とを豊かなものにした。

山水亭には広々とした宴会用の空間や、芸者による生演奏があるわけではなかったが、どのテーブルにも花が活けてあり、食事であれ喫茶であれ、いつでも蓄音機から流れてくる音楽を楽しむことができた。そこは戦火にさらされる都会の中のオアシスであり、近代台湾の多くの文芸人にとっては、ホームであった。あなたがもし、休日にファーマーズマーケットに行くのが好きだったり、あるいは美術館やコンサート巡りが好きだったりするなら、過去に戻ることができれば、この時期の山水亭で味わえる郷土食材の美味、台湾の文人たちとの楽しい交流に、きっと満足するだろう。ただひとつ、欠点がある――外では空襲による爆撃に遭うという危険が待っているのだ。

 

 

 

【訳者メモ】

台湾で何が好きかと聞かれると真っ先に「食べ物!」と答えるのがお決まりになっている。特に記事にも登場した「刈包(グァバオ)」なんかは大好きで、日本でも中華街に行けば「中華バーガー」みたいな名前になって出てくるけども、台湾で食べるパクチーの効いた角煮こんもりの刈包の方がやっぱりうまい。思い出したら腹が減ってきた。

*1:前回の翻訳記事「心の扉を開けば―作家・王昶雄の生涯」の中でも、王がよく訪れた場所として山水亭が紹介されている。